え ん

人生は連鎖する、

「わかんない」「にもかかわらず」

 
 

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最近の思考整理
 
 
社会学とは、ひとの生き方の根幹を揺るがすものである、と私は思う。
 これまで常識だと思っていたもの、自分にとっては当たり前過ぎて、そもそも見えてすらいなかった構造を直視すること、そしてそれを問い正すような行為は、決して生易しいものではない。時として、自分のなかに眠っていた暴力性や、弱者に対する権力加担、男性、女性蔑視を、この目に焼き付けなければならないことも要請される。
 
 だからこそ、私はこの学問の魅力に取り憑かれた。
 そしてだからこそ、この学問を、生半可な気持ちで、私は人に勧められない。
 
 私は昔から、当事者意識が強い。
 そして、今、そのおこがましさを強く自覚している。
 
 
 多様性という言葉が、あまりにも社会を取り巻くようになった。
 様々なバックグラウンドを持つ人々、みんなが生きやすくなるような社会を構築すること。
 それは本来であれば、誰もが心地よいはずで、誰もが尊重しあえる空間なはずなのに、どんどん、どんどん、どんどん、首が締まっていくような感覚に陥っているのは、きっと私だけではないと思う。
 
 多様性なんて、本当は、誰も、望んでなんか、いないんじゃないか。そんな錯覚さえも起こしかねない。
 
 大体、人間誰もがみんな同じ方を向いていて、同じ景色を見ているに決まっていて、自分と同類なのだと思っていた方が、楽に決まっているのだ。自分が見えている視界だけで物事を判断していた方が、安全に決まっている。人間だけじゃない。動物の生存には、同質性を強固にしていくことが何よりも肝要で、異質なものを出来る限り排除していく過程が見て取れる。
 
 
 
 昔から、トムとジェリーのアニメが好きだった。
 何にも知らないうちは、純粋にこのアニメを楽しめた。
 黒人やネイティブアメリカンに対し、白人がしてきた歴史を知ろうとなんかしなければ、ずっとずっと、このアニメは楽しいギャグアニメのままだったのに。
 
 不妊治療が保険適用になるにあたる国家の影なんて、見ようと思わなければきっと見えない。
 LGBTQ+という一つの単語の中の人生ひとつなんて、皆が同じだと信じていればきっとそうだ。
 
奥や隙間に入り込む、全ての現実に、ひとつひとつ目を配ろうと思えば、自身が破綻する。
一人一人の人生を汲み取り、願いや絶望を考慮しようと思えば、かならずどこかで誰かがこぼれ落ちる。
 
 
 
 
 
 
「にもかかわらず」
 
私は今日も、社会学の勉強を続けようとしている。
 
 差別を差別だと認識するには
 痛みを痛いと感じるためには
 生きづらさを言語化するには
 誰かの傷をいたわるためには
 
 必ず、そこには知識が必要なのだ。
 
 ひとの痛みに寄り添う本質や、社会の矛盾を突く究極の目的は、いつだって、自分の経験や共感力だけではカバーしきれないものがある。
 
 
 
 
わからなさ、ということについて、よく考える。
 
どのSNSにも「いいね」ボタンがついているからか、昨今は特に、世の人は共感することや、同意してくれる数に東奔西走している気がする。
「わかる」「それな」が若者言葉として定着して久しい。
 
そこにいちいち立ち止まるなんて、非常に面倒なやつだと思われるだろう。
でも、そこで勇気を出して、本当に、それは「いいね」? 本当に「わかる」?と問うてみる。
 
例えば、私は生まれてからこのかた、自分の性別をずっと女性だと思って生きてきた。
トイレがピンク色の壁であることも、ランドセルが赤かったことも、バレンタインの時期にどきどきしながら男子にチョコをあげることも、ポーチの中に絆創膏や生理用のナプキンを携帯している子を「女子力」と言って賞賛することも、何一つ違和感を持っていなかった。
 
だから、LGBTQ+の当事者の人と話していて、私にはわからないことばっかりな現実に直面する。
でも、それと同時に、カタカナ語だとか専門用語に対し、ちょっと斜に構えて見ている自分もいる。
多様性を認め合う社会にするつもりが、そうした用語によってクローズドな雰囲気を醸し出しているような違和感が拭えない。
 
「わからなさ」
私には、それが大事な鍵を握っているように思えるのだ。
 
 
なぜなら人は、
わかんないけどそばにいることはできるし、わかんないけどわかろうと努力することもできる。
少なくとも私は、今までそれで救われたことがある。
 
 
「わからない」「にもかかわらず」
そばにいる、応援する、目を背けない。
 
そこに、私は社会学の魅力があると思うし、誰かが誰かにとっての、そんな存在になっていけるような社会を、目指していきたい。