お疲れ様です、おかげさまです。
初日の出は完全に逃しました。
これは昨日(1/2)の朝日。ホーム上から。
明けましておめでとうございます。
たくさんの人たちと関わり、コミュニケーションを取り、一緒にずっと仕事をしていたのに、新年のこのご挨拶を、未だオフラインの場で口に出していません(というか、本当に年が明けたのかよくわからない‥‥)。
昨日、今日とスーパーハードな8時間バイトをしていて、社会と個人の人生について考えた。厳密にいうと、年明け前から考えていたことでもあるのだけど。
ひとつに、今こうして、私が「社会」というよく意味がしっくり来ない単語を使って、そのよくわからない「社会」について考えられていることは、実は決して当たり前のことじゃないんだな、ということ。言ってしまえば、余裕がある、ということ。大事なことなんだけれど、社会という大きな枠組みを考えられる余裕が無い人達こそが、社会の大多数を占めている。そして、彼らは常に、今目の前のミッションしか考えられる余地がない。一週間後のこと、"he","she","they"のこと、次期市長選のこと、北朝鮮のこと、考えられるほど「ヒマ」じゃないし、帰宅後に本気でそんなことに思考を巡らせるほどの余力、残ってやしないのだ。
そして、それでも社会は一部の「ヒマ」な人たちや「運」が良かった人や自身の環境のなかで「努力」をした人たちに委ねられる。
そう。努力論だけじゃ、社会は語れない。
そして、感謝の気持ちだけは、忘れたくないな、と思う。
今着ている服も、今日食べたおにぎりも、電気がついててシャワーが浴びれるってことも、毎度お世話になってる宅配便も、横断歩道が渡れるってことも、こうやってこんな一個人の学生が、ネット上にブログ掲載できるってことも、全部全部全部全部全部全部全部全部全部、たくさんの人たちの手が関わっている。コンビニで働くレジの私の友達や宅急便の私のエリア担当のお兄さんはもちろんだけど、彼らの後ろにはあまりに無数の人々がいる。機械やロボット化が進んでいる、と言うけれど、実際にはとんでもないほどの人々が私たちの生活を潤してくれていて、私自身もとんでもない人々の生活を潤す一員でもあるのだ。そのことを、経験をもって、深く理解できた。このことは私が今掲げている将来の夢にもつながる。感謝は求められるものでも強制されるものでもない。自然とこんな気持ちになるときが感謝するとき。なれない時期は無理にしなくたっていい。なれない時期が来なくたっていい。
私は、今日も、逞しく生きています。