え ん

人生は連鎖する、

それでも春は、

 

もう三月も中旬に差し掛かっていますね。

皆さんお元気ですか。いつも読んでくださってありがとう。たまたま開いてくれてありがとう。今日はいつも載せる写真がありません。今、近所の川辺に咲いている桜を見せたかったなあ。今度載せます。

 

春って、何となく、私は好きじゃありません。始まる、って瞬間に、終わる、ことを想像してしまったあの頃を、思い出すからかも、知れない。

 

 

 

 

 

******

 

実は、先月、81歳の祖母が亡くなりました。

mercy07s.hatenadiary.jp

 

この記事をアップロードした、わずか30分後、母から着信がありました。

 

急すぎる祖母の死に、いまだ気持ちの整理のつかない状態ではありますが、今回の祖母の死は、今後の介護業界、社会福祉を考えるうえでとても重要なことであると考えています。私は仕事としては介護から離れた人間ではありますが、この考えは常に持ち続けていたいと思うし、皆さんにも共有したいので、あえてブログに書きます。

 

 

 

祖母は老健に一年と約三か月、入居していました。

 

祖母の死因は、急性循環不全、とのことでした。

死亡診断書のチェック項目には、病死・自然死にレ点がふられていました。

 

しかし、私たち家族は、そうではないと確信しています。

それは、異変が起きたのが単独での食事中であったこと、既往歴に循環器系の病気を抱えていないこと、延命治療など全く行っていないことからいえます。

 

 

 

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
自然死
しぜんし

死に至る一形態。死は医学的に、自然死、病死、災害死、事故死、自殺、他殺に分類される。また、死の原因、すなわち死因は、死に至る基本的病態に従って分けられ、消耗死、脱水死、呼吸(不全)死、心(不全)死、中枢障害死、貧血(無酸素)死、代謝死、ショック死、事故死などがあげられている。自然死とは、疾病その他の原因がなく死に至ることで、いわゆる寿命を全うしたものと漠然と考えられる。寿命とは、われわれ人間をはじめ、すべての生物の生命の限界を意味するもので、これは種族あるいは個体によって大きく異なることはよく知られている事実である。一方、なんら病的変化のない状態での生理的現象である老化の最終が老衰死であり、そのときの年齢が寿命と考えられ、人間では100歳以上とされている。しかし実際には、完全に老衰死あるいは自然死といわれる状態がみられることはきわめてまれであることは病理解剖において常識とされている。[渡辺 裕]

 

 祖母は亡くなる十日前、ベッドから転落し、以前痛めた経験のある腰を打ったそうです。そのあたりから食欲不振があったり、飲み込みの悪さがあったようです。それまでは、重度の認知症ではあったものの、体の状態はとても良好でした。ここで、普通の介護士なら、毎食の食事介助を行うし、死因は誤嚥を疑います。

 

 

娘である私の母が、祖母の死を聞かされたのは、亡くなってから二時間後。

施設に駆け付けると、祖母は尿カテーテルをつけっぱなしにされ、向かいにも隣にもほかの利用者様がいる状態で、ベッドに寝かされていたそうです。その際、対応したのはおどおど震えるヘルパー二級の夜勤者一人だけで、施設長である医師もケアマネもいなかったとのこと。

 

翌日、私も急遽帰省し、施設へ話を伺いに行くと、亡くなった祖母に一度も立ち会わないケアマネからの矛盾・あいまいな話、過度な責任転嫁、あまりにも空白・空欄の多い二枚のケアプラン、たった16ページの介護記録を渡されました。なにひとつ、理解・納得は得られない。結局、三回めに伺って初めて施設長にお会いしましたが、「ほんと、不幸でしたねえ」のひとことで片づけられてしまいました。

 

 

 

 

私たちは、断じて、

この施設を許しません。

 

 

けれど、それと同時に、この施設をつぶすことが正義だというわけでもない。

 

きっと、施設の体制や緊急時の対応、人数の確保、教育制度から考えても、このような問題は祖母に始まったことではないのです。たまたま、私たちは介護に携わる家族であり、どういう点が異常なのか、事細かに理解できるだけ。介護保険や福祉の現状、認知症支援の在り方が何たるかを、「知らない」「知るすべを持たない」ひとが大勢いるのです。

また、どんなに劣悪な環境の施設であれ、その施設があるおかげで、自分たちの生活ができる家族がたくさんたくさんいるのです。在宅介護の厳しさ、施設待機者の数は、経験上私も理解しています。施設に預けることが悪だなんて絶対思わない。預けざる得ない人々であふれかえっているのです。だから、施設は必要なのです。

 

 

 

ですが、

今後の超高齢社会・日本。

 

それで、本当に、良いのか。良いわけありません。

 

この先の課題は、上層部と現場の二極化だと思います。

利用者へのケア、倫理観、正しい介護の在り方は、本当にそれぞれです。何が正しいのか、私もわからない。

けれど、その二者の連携が取れない施設、誠意を持たない上層部、尊重する心を知らない介護士は、速攻対処すべきです。

 

 

私たち家族は、こんなところで終わらせない。

 

 

 

 

 

******

 

私にとっておばあちゃんの存在は、あまりにも大きくて、大きすぎて、周りが見えなくなるほどでした。17,8年ともに生きてきて、最も喧嘩した相手だし、本当に大嫌いで大嫌いでたまらなかった時もありました。十代の頃の私の価値観は、祖母によって構築されていたといっても全く過言ではありません。

 

そして、出棺・火葬の際、最も泣き喚いたのも、私です。

 

おばあちゃんとの思い出は、ひとつふたつと数えられるものではありません。ずっと一緒にいたから、あまりにも近すぎたから、大好きで大嫌いだった。大嫌いで大好きだった。そんな祖母が、いない。私は今でもその真実を深く考えられません。

 

 

 

親戚の方々とお会いして、祖母が彼らとともに生きていた証、私の知らない祖母の思い出たちをたくさん知れてよかった。なんというか。おばあちゃんは、私だけのおばあちゃんじゃないんだな、って、当たり前なことを感じました。

 

私は、おばあちゃんと日々を、決して忘れないし、これからはそれを糧に強く強く生きてきたい。そう思います。

 

 

 

******

 

 

私達は、生きています。

 

生きている限り、毎日は続いていくし、日常に戻らなければならない。

生きている限り、私は亡き人々を何度も何度も思い返すだろうし、大切なひとを失う場面に遭遇するんだろう。そのたび、絶望して、後悔して、苦悩するんだろう。そしてそのたび、私は立ち上がって、日常に溶け込んでいくのだ。

 

 

そんな私も、

いつか終わる。いつか果てる。いつか消える。

 

それでも春は、やってくる。