逃げるってなんでしょう。
少しだけお久しぶりです。
みなさん、お元気ですか。
私は、あまり元気ではありません。でも、そんなことを言ったところで、元気が湧き出てくるわけでも、目の前の景色が明るくなるわけでもないので、精一杯、今出来る問題を解こうとしています。
今バイト帰りで、電車に乗っているのですが、私が楽しみに購読しているブログが更新されていたので、嬉しくなりました。そして、その記事を読んだあと、今の自分を思い、何と言うか、少しだけ複雑な気持ちが拭えなかったので、この気持ちを私のブログに書きます。
そのブログ、ここに掲載しても良いのかしら? うーん、わからないから、載せない。あと、Kさん、不快に思われたら、本当にごめんなさい。
【許可を得たので掲載致します 2017/05/07】
内容は、平たく言うと、「逃げても良いんだよ」ということです。
今、辛い環境、状況にいたら、その場から逃げる、という選択肢を取っても良いんだよ、と。
私、最近、本当によく考えるんですね。
今通っている大学の進学をきっかけに、私は、岩手、つまり実家を出たけれど、それは本当に、良かったのだろうか、と。
今、私は就活生として、関東エリアの企業をエントリーしています。Uターンするつもりは、今のところ、ありません。それが今後の私にとって、本当に幸せなことなのか、今の私にはもちろんわかりません。
ほんの三年程前、四畳半の煎餅布団しかない部屋に閉じ込められていた私は、この一年間で、見知らぬ土地で一人暮らし、都内でアルバイト、そして新宿でリクルートスーツに身を縛られながら、厳しい毎日を生き抜く、「どこにでもいる大学生」になりました。
今、辛いこともしんどいことも嫌なことも不愉快なこともたくさんあるけれど、とりあえず、それに耐えながら、ごまかしながら、「普通に」生きられるほどの人間になりました。
だけど私は、
たまたま、本当にたまたま、家族以外に、家族同然、或いはそれを超越して、私のことを大切に思ってくれる存在に出会えたから、今、こうしているわけです。精神的にも、経済的にも、未来の私に希望を持ってくれ、支援してくれたひとがいるから、私は実家から逃れることができたのです。
中学生の頃、私はずーっと、
『なぜ私が「ただいま」と言える場所はここしか無いのだろう』
と思いながら、リビングからの怒声や泣き喚く声をBGMにしながら、隣の部屋で父親が引きこもるなか、自室で手首を切っていました。その時、私は、ただつらい、しんどい、苦しい、だれか助けて、というような内容の詩を、ノートに書きなぐっていました。
だけど、逃げたい、とは思わなかった。
逃げる、という言葉すら、その時の私の頭の中の辞書には無かった、というほうが正しいかもしれません。
今の私は、その頃の私や、その頃の私のような状況下にいる子どもに、特に掛けてあげるような言葉はありません。何を言っても嘘になる気がするから。
だけど、
逃げたくても逃げる場所も見つけられずにいるひと、
客観的に見ればどう考えてもその場が地獄なのに、地獄であることすら知らずに、天国に行く地図を知らないまま、ただただ辛い思いを堂々巡りしている、せざる得ないひとが、今、この瞬間に、確かにいるのだ、ということ。
そして、その地獄を作っているのは、他でもない、今の私たち、すなわち「どこにでもいる普通の人たち」であふれかえっている、この社会全体である、ということ。
その現実から、私は目を背けたくないな、と思うのです。それが、せめてもの、過去の私に対する慰めなのかな、と。
最寄駅に着いた。明日から、また1週間が始まる。