え ん

人生は連鎖する、

友人へ


この世間のありとあらゆる現実を知ったような顔して囓ったりんごのパソコンとにらめっこしながら一生懸命読めるけど書けない漢字や聡明そうに聞こえる英単語を使おうとしているみたいだけどさ、君も私もこの世界中に溢れる固有名詞なんて何も知らないに等しいじゃないか。自立・自律した人間になることを自分を含めた全ての他人に要求する前に、その自立・自律の定義と意義を明確に聞かせてみてよ。その行為の理由が義務だからと抛つその言葉の意味、要は思考を放棄したということだと捉えて間違いではなさそうだね。君が君の世界で君らしく君として君自身の君の生き方を尊重しているように、私も彼もあの人もそれぞれのリズムやテンポやペースで精一杯前に進もうと踠いてるよ。生きてるよ。君が知らない歴史が君の隣でいつも、いつも、いつも、叫んでいるよ。そのけたたましい無音や沈黙し続ける騒音に耳を傾けることをしないうちは、社会を語る権利なんて無いと思うよ。君は、君の理想から言えば程遠くずっこけ続けてきた私の各々のパーツをとても軽蔑しているようだけど、私にとってこのガラクタたちは唯一無二の大切な大切な宝物だ。君にかけがえのない宝物があるように、私も君の知らない私の過去や旧人たちとの思い出は今も私の一部として生き続けている。目には見えない背景の存在を認めない君が謳う哲学は、私にはあまり有益ではないみたいだ。ごめんよ。私は君のことが嫌いなわけじゃないんだ。君の意見に賛同できないだけだ。またいつか話しましょう。

孤をひとりで描く


生きていても

良いことなんて無いんだなぁ


って

今でもちょっと、いやかなり、思うのだけど


たぶんそれは

しあわせのハードルが高いだけなのだ

たとえば

布団のなかあったかいとか

走った後のカフェオレおいしいとか

そういうことで良いだけなのだと

ちゃんと気づいている(ふりをしている)




失くした何かや欠けた思いだけを

指折り数えて

手の指だけじゃ勿論足りなくて

まだある足の指さえも

足りなくなることに怯えて

記憶は何度も何度も再生ボタンを押してくる

一時停止する優しさは

一時的で何の解決にもならないことぐらい

ちゃんと理解している(つもりなだけだ)







本当は



生まれてきてここまで

いろんなことあって今生きてるってことがどれだけすんごいことなのか

あの頃よりはマシだって考えかたがどれだけ大切なことなのか

私はたぶんまだ知らない



誰も彼もが嫌いだ

大嫌いで大嫌いで大嫌いだ

出逢わなければ良かったひとの数が

これ以上増加し続けるのが怖いから

語らなくても済んだ思い出の数が

これ以上更新されるのが怖いから

だからもう誰も彼もが嫌いだ

自分に厳しく

誰よりも自罰的に生きているようで

同じ鋭さを持ったナイフを

不特定多数の他人に振り回しているだけだと

私はたぶんまだ悟れない




愛だとか平和だとかいうことば

そもそも定義すら知らないくせに

どんなにコンパスで弧を描いたって

ひとりなら円になるわけないだろうに

きっととりあえず罪を背負っていれば

とりあえず底知れぬ痛みを感じていれば

誰かが立ち止まってくれる(はずだ)から

誰かが恵んでくれる(にきまってる)から

わかってるよ

とりあえず自分のせいじゃないことにできるから

宗教なんて

社会なんて

歴史なんて

そんなものだよ






裏切りだと言うほど

表立った行動なんてしていないのに

いつから私は

必死に絆創膏や包帯を探しているのだろう

他人を傷つけたくない優しさは

自分が傷つけた罪悪感を背負いたくないだけなのに




自分以上に大切に思える宝物が見つけられないんだ

そう思えるようになるまでの時間が無いんだ

ああだからそうやって

自分がカワイイって

自分で認められないから困っているんだ





馬鹿な真似ができる奴は頭が良いとか言うけどさ

頭が良いなら馬鹿な真似なんかするなよ

正々堂々気取って高みから馬鹿をバカにして馬鹿を食い物にしてしまえばよいのに


ああ

そうやって

部屋のなかで馬鹿にしている雪景色から

馬鹿にされることを恐れているだけだ




夢なんて山みたいなものだよ

遭難しそうになったら下るなよ

そんなこと言ったって

自分以外に守りたいものが今は見つけられないんだ



私はいつまで

弧を描き続けるのだろう




アドラー心理学の流行について

アドラー心理学の熱がなかなか冷めませんね。

書店に行くと、『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』は未だに堆く積まれていますし、ビジネス誌や自己啓発関連のブースでアドラーの名前を頻繁に見かけるようになりました。このことについて、実は私は随分前から危惧しています。

 

先にリスクヘッジを売り込んでいるようですが、私は大学で心理学を専攻しているわけではありません。アドラー自身の著作を読んだこともありません。そんな私がこんな記事を書くな、と怒られそうですが、あくまでも『嫌われる勇気』関連の本に対して書きます。根拠のあるロジカルな批判は何なりと受け付けます。

 

 

 

 

 

 

『嫌われる勇気』に、このような文章(p88〜89)があります。

 

  劣等感そのものを先鋭化させることによって、特異な優越感に至るパターンです。具体的には、不幸自慢ですね。

 (中略)

   自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々ーーたとえば家族や友人ーーを心配させ、その言葉を束縛し、支配しようとしている。

 

 

 

また、最初の章の名前はずばり、「トラウマは存在しない」。

いかにも、フロイトの理論から一線を画し、決別したアドラーの個人心理学を端的に表した言葉です。

 

 

 

 

私が初めてこの本を読んだのは、今から二年ほど前のことです。ちょうど、私の人生もひとつの大きな転換期にありました。素直に納得しましたし、この本が言っていることはその通りだ、と過去の自分を恥じもしていました。それから暫くの間、この本からも学術的なフィールドからも離れた生活を送っていました。介護職員にとって哲学の理論や主義なんて必要はなく、技術の向上と利用者に対する愛だけしか私の頭にはありませんでした。もっとも、その愛ゆえに私は介護職から離れる決意をしたのですが。

 

 

ですが、最近になり、改めて高等機関で勉強や論文を書いたりする機会を得て、この『嫌われる勇気』に対して、あれっという引っ掛かりを覚えるようになりました。繰り返しになりますが、私は心理学を履修しているわけではありません。英語科の歴史学のゼミで社会学の勉強をしている、わけのわからない短大生です。

 

何が引っかかるって、こんなにまでアドラー心理学が人気を博するようになって、傷つくひとが必ず一定数いると考えるからです。というか、実際にもし、私がこの本を高校時代に読んでいたとしたら、おそらく一生立ち上がれないんじゃないかってくらい余計に落ち込んだことでしょう。

 

さっきの引用文の話だけに帰着させると、明らかにこの文体は、「不幸自慢」するひとのことを痛烈に批判していますよね。でも、私が思うに、問題は「不幸自慢すること」ではなく、「なぜ、いつから、不幸自慢するようになったのか」なわけです。それを、過去のトラウマは存在しない、自分がこの先も不幸で居たいから、自らの手で不幸で居ることを選んだから、いつまでたっても変わらないのだと結論付けてしまったら、彼らに逃げ場所が無くなってしまいます。

 

 

アドラーの理論だけがビジネスや学校などの現場で応用され、独り歩きするようになったら、何らかの理由がきっかけで心を病んでしまったひとや、不登校で苦しむ生徒などの人権はどうなるんだろう、なんて考えてしまいます。

こういう考えもある、と留めておくことはとても大事な営みだと思うし、その他の章や本で納得することも多々あります。何より私がこのような記事をより論理的に説得性を持たせるためには、まだまだ勉強不足を痛感させられます。

しかしながら、ただ、社会がこうやってひとつの理論に集中することにより、案外近くにいる誰かが傷つくこともある、ということは覚えておくべきことだと思うのです。悪意のない無言の大衆の圧力こそが、一番鋭利なナイフであったりするのです。

 

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

 

 

 

 

 

後期が本格的に始まりました。課題やらレポートやら予習やら読書やらTOEICやらで、早くもキャパオーバーだったりするのですが、前期の成績がそこまで良くも悪くも無かったので、もう逃げられません。病み始めたら、このブログを逃げ場所にします。ふぁいとだ詩織p(^_^)q ♫

 

 

 

今の自分へ


最近、周りの人たちを見て、不快な思いをすることが多くなった。


たとえば、

喫茶店でたまたま隣に座った女子高生たちの、クラスメイトに対する悪口。

母の職場の、進歩も生産性もない愚痴、駆け引き。

大学の友人たちの、人の話に耳を傾けることもなく、大切な決断をひとりで済ませてしまう態度。


私には全く無関係で、なにひとつ口を出す余地など存在しないはずなのに、ただ、ただ、胸のなかで、彼らに毒づき、貶し、不穏な気持ちになっている自分が、ここにいる。



なぜ、そんな気持ちになるのか、

私にはちゃんとわかっている。


彼らに非があるわけじゃない。


私は彼ら自身を馬鹿にしているわけじゃない。



彼らのひとつひとつのパーツに垣間見える、過去の私を、侮辱しているのだと思う。



正直、過去に起きたひとつひとつの出来事やトラウマとなっていたことを、今更引っ張り出してアレヤコレヤと、オヨオヨベーベーと記事に書くほど、今の私はヒマではない。本気で、本当に、本心から、どうでも良いとしか思っていないし、そこからの教訓や知恵なんて、あの経験をしてあの感情を抱いた私にしか通用しない。


だから、一応、過去のことは過去のことという認識に到達するところまでは、とりあえず行き着いた。


でも、私は、過去の自分を許すことが、今はできていない。

なぜなら、そこには、

確実に、言い訳を論破できる余地があったから。

判然たる、まだ少し頑張れる余力があったから。

明確な、支えや応援に応える余裕があったから。


要するに、

どんな綺麗な弁明で着飾っても、そして実際に壮絶な環境に身を置いていたことが事実でも、それでも、過去の私が、その環境を「利用」して、「甘え」ていたことは、認めざるえないことなのだ。


だから、反省以外にも、「後悔」をしている自分がいて。

そんな自分を許すことができないから、嫌で嫌でしかたないから、そんな自分とほんの1ミリでも似ている誰かを見て、不愉快な気持ちになるんだ。



彼ら(過去の私)に対して、言いたいことはたくさんある。

それは違うよ、って。

そっちの道に進むと、あんなことが待ってて、結果的にああなってこうなってそうなって、全て自分に返ってくるよ、って。

本当のとこは、今の自分の状態を変えるのは、今の環境を変えることじゃないってこと、わかってるでしょ?って。


だけど、私は、まるでハマグリのように、口を閉ざす。

自分の意思で自分の決めた道を自分の力で歩いて、そこで不幸や破綻があって、初めて人は方向転換を試みるものだから。

人から言われた言葉で本当に悟りを拓ける人なんて居ない。たとえどんなにその言葉が真理だったとしても、自分で確かめなければ、自分で痛い目を見なければ、人は絶対に気づけない。


私はひたすら沈黙する。

けれど、彼らの行き着く先を、私は知っている。


甘えるな、とは言わない。

むしろ、人はたくさん甘えるべきだと思う。適切な時期に適切な相手から適切な愛情を注がれなかった人間は、その後の人生も甘え方を知る機会が無い。見た目は十分な大人だとしても、そういう人はきちんと甘えられる環境を与えられるべきだ。


でも、だとしても、いつまでも生き物は揺籃のなかで過ごして生きていけるわけでもない。もう一踏ん張り出来たその時間を逃したひとは、その時間の分、何かしらのデメリットや被害を必ずどこかで被る。逃れたボールはいつか、かならず自分に返ってくる。



いつまでもそんな状態で居られると思うな。

今は必ず今じゃなくなるんだ。

今日は必ず昨日になる。

明日のノルマは今日のノルマになる。


少なくとも、

今、現実逃避したり、誰かに甘えたり、時間や身分のロスがあることに関して、どこかで罪悪感を感じている自分が、いるとしたら、それは、いつか必ず、後悔に変わる。


休むなら、辞めるなら、諦めるなら、逃げるなら、正々堂々本気で全身全霊込めて全速前進すべきだ。そこに罪の意識があるなら、今の道に未練があるなら、まだ頑張れる。いや、頑張らなきゃならない。





過去の私は、頑張らなかった。

頑張れるはずだった。頑張らなければならないはずだった。でも、頑張らなかった。

それは、どんなにひとから同情されても、慰められても、励まされても、事実だ。


今の私は、21歳。短大生。

もっと、もっと、もっと、もっと、高みに行ける。まだ、まだ、まだ、まだ、頑張れる。やれる。できる。

今の状態で高みに行けなかったら?

また、何かしらの空虚な綺麗な言い訳つけて、

もっと頑張れた「としたら」、高みに行けた「かもしれない」

本気を出した「としたら」、夢を叶えられた「かもしれない」

環境が整っていた「としたら」、理想の自分「かもしれない」

そんな自分に酔いしれて、またユメを見るのか?



いいかげんにしろ。

自分。


過去の自分を許す必要は、今はない。

でも、

未来の自分に許される生き方を選ぶのは、今しかない。


いいかげんにしろ。



今しかない。


今しかないんだ。



成熟すること、卓越すること、

昨日、母校の文化祭に行って、後輩たちと飲み会をして来ました。 このモヤモヤした気持ちを書きます。

 

 

 

人間として成熟することって、本当にひとそれぞれのペースがあります。同じ地点に立つまでに、一発でパッと道程がわかるひともいれば、たくさんの試行錯誤を重ねに重ねてようやく辿り着けるひともいます。そもそも、何をもって成熟と見なすか、どこからが大人であるのか、それを規定することさえ、ひとそれぞれです。 だから、他人と自分を比較して一喜一憂するのは愚かだ、というのは、おそらく真理であると私は思っています。

 

その上で、昨日、久しぶりに担任に会ってたくさんお褒めの言葉をいただき、抱きしめられたことは、本当に嬉しかったし、また申し訳ない気持ちにもなりました。高校時代の私を、一番に理解しようとしてくれていたにもかかわらず、当時の私はそれを素直に享受したり、感謝の意を伝えられるほど大人ではなかったから。 先生は、何度も何度も私に「頑張ったね」とおっしゃいました。頑張ってね、じゃなくて、頑張ったね、と。それに対し、私も確かにいろいろ頑張りました、なんて笑ったりなんかしていました。

 

 

その後、部活の後輩たちと再会して、飲み会に流れ込んだ時、なんだかさっきの、「うん、確かに私は今まで頑張ったな笑笑」って気持ちがさめるような感覚を覚えたのです。 なぜかって、後輩たちはあまりにも卓越していて、成熟していて、私が考えていたよりはるかに大人な考えを持っていたからです。 私が今この地点に辿り着くまで、こんなにもこんなにも紆余曲折した道程を歩いてきました。でも、この子たちは、今の私よりもずっとはるかに先を、ずっとはるか前に歩いていて、そこで多くのものを習得してきたんだな、と。そう、卓越しているんだ。今の自分たちに対しても、先輩である私、後輩である在学生、顧問、過去、未来、そして社会全体に対してでさえ。 大学生はロクなこと考えない、とか、ゆとり教育だとか、好き勝手なことを都合の良いオトナたちは私たちを嘲笑うけれど、全然そんなことありません。ゆとりだろうと詰め込みだろうとさとりだろうと、考えるひとはどこまでも思考を深めるし、お花畑のひとはいつまでもお花畑なのです。

 

そういう意味で、私は悔しいな、と思いました。 私が今のこの思考に到達するまで、こんなに履歴書も経歴も汚れてしまったことが、悔しくなったのです。今の私を、機械的な書類だけで判断するひとたちとは、最終的にもより良い関係は築けないだろうから、それだけの理由で就職や人間関係がうまくいかないことに関しては特に危惧していません。でも、この今の立場、思考に到達するまで、もしかして、もっと近道があったのかな、、、という気持ちが拭えないのです。率直に言うと、今の私のまわりの同級生にお花畑の子たちが多いのは事実です。でも、彼女たちと同じ学生証を持っているということは、私もその程度の人間だからです。明らかに後輩たちと自分を比較しているだけで、本当に愚かなことなのですが、やっぱり、悔しいものは、悔しいです。

 

とにかく、このモヤモヤした違和感って、結構自分のなかで大事だと認識しています。 私がこの先どんな自分でいたいかな、将来どうなっていたいかなってことをぼんやり真面目に考えた時、少なくとも今までのことを痛々しくダラダラ語ったり、傷痕を舐め合うようなひとと関係を築き合いたいとも思わなくて。そして、これはあくまでも私個人の考えに過ぎないのだけど、過去の私のような人たちを職につく形で支援するのも、私らしくないな〜って。ボランティア団体とか非営利組織や協議会で活躍している人たちのことは本当に尊敬するのだけど、私はできればひとりでふらふらと気が向いた時に私の傍に寄ってきたひとたちと遊んでいるほうが好きなので。

 

 

私は、自分が居たいと思える場所に身を置くために、今から、精一杯頑張ろうと思います。もう、自分には、負けません。