異国にて祖母を想ふ
今年に入ってから、一度もブログを更新していないことに驚きマン。それより驚くことに、いま、私は日本にいません。私は、という主語のあとに、日本にいない、という言葉が続く日が来るなんて、今でも信じられない気持ちでいっぱいなのですが、とにもかくにも、私は異国にいます。
今年に入ってから、このブログだけでなく、日記だとか家計簿だとかを書く気になれずにいました。何でだろう? 理由はこれといって思い付かないのですが、そんな自分が少し嫌でした。短大の頃の卒論テーマ、<記憶と記録>について思い返されます。記憶は記録する媒体がなければ消えてしまうか、若しくは新たな全く異なる形に再構築されます。 それが、私はおそろしかった。おそろしいくせに、今は書く気が起こらない。とても不安定な身分にいる今の自分を、どこかで残しておきたくない、そういう意味合いも、もしかしたらあったのかも。
でも、ここに来て、なんとなく、 少し、考え直しています。文字として記録すること、それだけに縛られなくても、良いのではないかな、と。というか、記録、というそのものを追いかけることも、或いは追われることも、もう解放されても良いのではないか、と。
記録することありき、であらゆる物事を捉えることはとても疲れます。当たり前ですが、私たちは日記を書くために生きているわけでも、歴史の教科書に載るために世界が廻っているわけでもない。 今を幸せに、楽しく、笑顔で居られれば、それで良いのです。
祖母が亡くなって、今日で一年になります。1年前の今頃の私を思い返しています。あの日のことを、日記も書いていないし、写真も撮っていないし、誰かに写実的、如実的に話したこともない。 記録としては何一つ残ってはいないけれど、私の胸にしっかりと焼き付いています。 一年後はどうか?五年後は?そんなこと、わからない。でも良いのです。 算数が 出来ない私にとって、計算して生きていくことは、見えない敵と戦うようなもの。そんな真似は疲れました。 生きていくことは、未来を予知することでも、過去を記録することでもない。今を大切に生きていく、それだけ。それ以上でも、それ以下でもなくて良い。
おばあちゃん
きっと私は、あなたの本当の愛を理解する日は、そう遠くないことでしよう
だから信じて
もう少し もう少し待っていて、ね
2018.12.30.所感
年の瀬、ですね。
2018年は、【終】という漢字一文字が頭から離れない一年でした。昨年の一文字が【改】だったので、おいおい改まった途端にもうフィニッシュかよ、という気もしないですが。
2017年の秋に内定式を終え、春からの居場所を確保した状態で2018年を迎えました。年始早々からバイトや日雇いに明け暮れ、休憩時間に『時計仕掛けのオレンジ』を読む毎日。ロックや。無事に卒論を提出し、2月は引越準備しつつ卒業確定。そして、早すぎる祖母の死。引越をして2日後の、鬼のような留守番電話を私は忘れないでしょう。身体的にも精神的にも物理的にもバタバタと疲労感が拭えないまま3月、入社式。
4月1日から入社したのもつかの間、率直に言ってそこから9月半ばまでの記憶は、非常に断片的で、かなしいものです。バラバラにノートやメモ帳に書かれた乱雑な文字は、辛い、しんどい、もういやだ、逃げたい、帰りたい、、、いやいや、楽しかった思い出だって、嬉しい言葉だって、笑い合った時間だって、あったはずなのに、文字として辿れるのはそんな重々しいものばかりなのです。このブログも、その当時の記事は決して明るい文体ではないですよね。
そんなこんなで10月は実家に戻ることになり、昨年の内定式と同じ日に退社。
けれど、送別会は本当に素晴らしい時間でした。自分の人生は、あの日々は、全てこのためにあったのではないか、と思うほどに。たくさんの上司、先輩、同期にかこまれて、温かな言葉をかけられて、本当に幸せな、幸せな時間でした。その時もらった花束は、大切にハーバリウムにしました。
11月の退社まもなく、すぐに地元でレジバイトをし、それも破綻してもう12月。どんな年だったか、と思い返すのが、非常に難しく思いました。人生23年間生きてきて、救急車🚑に乗った経験が3回あるのですが、その3回は全て1年間に集約されています。うん、なかなか問題だ😑
さて、2月の記事、今年の抱負について振り返りましょう。
あとは、今年観た印象的な映画(邦画ばっか笑)、読んだ本。具体的な本数、冊数は記録していない(途中でやめた、最悪💦💨)のですが、、、
時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)
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東京からの帰り道にて
独りよがりな考え方は、どこにも真実なんてものはなくて、それは自分以外の誰かの人生の指針になるわけもなく、寧ろ未来の自分への暴力になる可能性すらある。
けれども私は好きなときに好きなものを好きな文体で好きなように書いてきたし、この先も書いていく。
そして、書きたくないことは書かないし、書けないことは無理に言葉を絞り出すこともしない。活字というのは不思議なもので、平気な顔で平然と平和を装って嘯くこともできるし、有りしものを落とすことも、無きものを生むことも容易くできる。とても脆くて曖昧で壊れやすいものなのに、固く閉ざされたままひとの心を殺めた過去を持つ。活字は、時にガラスの破片となって瞼を突き刺してくる。
私が追いかけてきたものはなんだったのだろうと思う。
いや、それを振り返るには、まだ若すぎると大人たちは嗤う。四半世紀も生きていない私の歴史は、あまりに、浅すぎる。
けれど、「貴女はまだ若い」「人生は長い」という言葉を掛けられる度に、その虚と空に私は怯えるのだ。それは嘘だ。若いから何なのだというのだろう。長い短いを決められるのは、私が死んでからの話で、今それを判断できるのは、人間の業ではないだろう。
たとえ短くとも、死に直接的に携わる仕事を誇りを胸にしながらしていたからなのか。
今年の初め、あまりにもあっけなく私の十代の軸だった存在が亡くなったからなのか。
ずっと就くつもりだった会社での社会人人生が、思いの外早く幕を閉じたからなのか。
この不安定な国際情勢、国内格差、都市伝説的終末論に深い共鳴を覚えたからなのか。
それはわからない。
もしかしたら、この23歳という一見若葉が生い茂る暖かで柔らかに感じられる時期に、たまたまこの思考に落ち着いていた、或いは縛られていた、それだけなのかもしれない。
ともかく、私は今年、死、終わり、というものの近さを感じたと同時に、今を生き切る最大で最善の措置を考えている。
後悔しているわけではないけれど、短大時代は、暗くて湿った重い過去を背負いながら、きらきら輝きと永続的な明るさに満ちた未来に駆り立てられた二年間だったように思う。幸せになりたいようで、幸せになることへの罪悪感が残滓する。それはただの精神論ではなく、身体の不調として顕れることもあった。身体が悲鳴を上げているにもかかわらず、私はそれを決して認めなかった。そもそものスタートダッシュを誤った私にとって、それは怠慢でしかなかったのだ。早く、早く、早く、「みんな」のように「普通」に生きなければ。
そう言って、は短大時代に自らの意志と力で得た栄光、新卒枠で入社した会社を、半年と一か月で去ることになる。
結局、経済的な安定を求めたところで、私は幸せになれないみたいだ。だったら、もう、好きなように生きるよりほか、ないのではないか。好きだと胸を張って言えることを、一度極めるほどに熱中しても、いいんじゃないか。死ぬときに、やっとけばよかっただなんて、やりぬけばよかっただなんて、ダサい。
卒業以来、久しぶりに会った友人に、明るくなったと何度も言われた。なんか、抱えてるものがなくなった感じ、と。
余計なお世話だ、とも、なんじゃそりゃ、とも、いやいやがっつり抱えてるわ、と大きな声で笑ったけれど、、まあ、ありがとう、と言った。
もう一人の友人のことは、私に書くほどの時間と語彙力があれば、きちんとひとつの記事にしたい。でも、書かないかもしれない。書くべきではないのかもしれない。
愛を学んだ💐
去年の今日は、内定式。
今年の今日は、退職日。
自分の人生なはずなのに、気が付くと自分の意志と力で先の道を選べることって、実は案外少ない。3ヶ月以上前に読んだ、内舘牧子さんの『終わったひと』を思い出す。生きるって、難しい。
とは言え、今の私は、落ち着いている。
辞めたくて辞めるとか、職場の人間関係や仕事内容が嫌で辞めるとか、超絶ブラック企業だったから辞めるとか、そういう話ではないから苦しんできたのだけど、だからこそ、今は落ち着いている。
まあ、ブラックかホワイトかなんて、とても恣意的なものだと思うし、あるひとから見れば、私の会社はとんでもないブラックだったのかもしれない。でも、私は、そうではなかった、と思う。なぜなら、私は今、とても穏やかにあの会社での日々を思い返すことが出来るし、幸せな気持ちだからだ。
自分で言うのもなんだけれど、私は完璧主義者だ。
常に最善を尽くしたいし、きちんとした結果を残したいし、私が私のなかで納得のいく作品を作りたいし、出来ることならそれを誰かに認められたい。
完璧でなくてもいいなんて、100点なんて取れやしないなんて、ただの甘えだと思う。7割出来ればそれで十分だ、そう甘んじたその瞬間に、そのひとは100点どころか、7割なんて取れやしない。遠い遠いところにいるのだ。
完璧であるということは、
本気、必死、愚直、真面目、
生きることに一生懸命である、
それらの形をもった証拠になるということだ。
そして、そんな完璧さからは程遠い私を、私はなかなかゆるせずにいた。まだまだ、まだまだ、まだまだ。こんなんじゃだめだ。これじゃだめだ。これだからだめだ。
そんな気持ちで毎日を生きていた。私が私をがんじがらめにする。完璧主義者は、はたから見たら、とても馬鹿馬鹿しいものであるのかもしれない。本人は、いたってシリアスなのだ。
けれど、今週、ちょっとだけ私は学んだことがある。完璧を目指すことには変わりないけれど、やっぱり百点満点取りたいけれど、取り続けたいけれど、ちょっとだけ学んだことがある。そしてそれは、私を前よりちょっとだけ強くしてくれて、そのちょっとだけの強さで、私は今の立ち位置よりずっと遠くに行ける気持ちなのだ。
それは、
完璧じゃない私のことも、愛してくれるひとがいる、ということ。
完璧とは程遠い、私がゆるせない私のことを、心の底から大切に想ってくれて、心配してくれて、気遣ってくれて、幸せを願ってくれて、サプライズしてくれて、優しい言葉を掛けてくれて、抱き締めてくれるひとがいる。本当に、ありがとう。幸せ者です。
それを本当に、本当に、本当に、身をもって理解した。そして、私は私だけじゃなく、そんな温かなひとたちのためにも、私のことを大切にしなければならないのだ。
もっと私は、完璧じゃない私を、ゆるしてあげてもいい。それを、ちゃんと、理解した。
自分は敢えて黒子に徹してひとを守ろうとする優しさと熱さを兼ね揃えたひと、どストレートにあったかい言葉をかけてくれるひとたち、会いたい、それだけの理由で時間とお金をかけてくれるひとたち、無条件で抱き締めてくれるひとたち、、、考えても考えても考えても、溢れるほどの愛情を教えてくれたひとたちを、私は一生忘れません。
前を向いていきましょ!
ハードルは高ければ高いほどくぐりやすい🏃🏃🏃
自己責任について語る前の近況報告
自分の行いやら振る舞いやら選択による結果、またはそのものにたいして、ほんとのほんとに自分だけの責任として受けとめられているのか、なんて、まあ正直
すぐに目を背けたくなってしまう、ていうか、臭いものには蓋をしよう、なんて、うやむやむにゃむにゃにして、そのまんまさっき飲んだオロナミンCのビンと一緒にポイ捨てしてしまったのだけど、
さて、ところで
こんなことになったのは
ほんとに自分だけのせいなのだろうか
🌱🌱🌱🌱🌱
難しい国際政治の話は、こんなブログで書くことではないというか、右とか左とかいう言葉は私にとってお箸を持つほうとお茶碗持つほうとかいう意味でしか使いたくないというか、とにもかくにも今の私には今の私の目に届く範囲でしか、手にすることができるものの話しか、興味も関心も知識も経験もキャパシティも無いので、とりあえず今の私のことを書こう。
🌿🌿🌿🌿🌿
最近の私はとりあえずたくさん邦画を観ています。語学系の高等機関を卒業したくせに邦画ですか、ええ、邦画です。なぜなら邦画が面白いから。アマゾンプライム様々です。特にも2008年上映、園子温監督の『愛のむきだし』は、今の私のような暇をもて余している20代にお勧めしたいです。最初から最後までぶっ続けで観るのは非常に体力と精神力が鍛えられる気がしますが、本当の意味で体力と精神力が鍛えられるのは、やっぱり筋トレや運動や労働なのかもしれんと改めて痛感している毎日です。というわけで、中高時代の体育の評価が万年オール2だった私は、見よう見まねでジムに通いながら腹筋したり走ったりしています。飽きたらまた家に舞い戻ってあなたへのおすすめ、的な邦画を観る。それにも飽きたら図書館に行って、センター試験過去問やら数学のチャート式問題集やら古文単語帳やらとにらめっこしている高校生を横目に、ポヤポヤ好きな世界史の本や雑誌や新聞を眺めたりしています。英字新聞がまあ昔より格段に読めるようになったことは、ちょっと自慢だったりしなかったり。そして舞い戻った、といえば、再び病院に通い始めました。好き好んで病院に行くひとはあんまり居ないと思われますが、最近は待合室に置かれている名探偵コナンの漫画を一巻から読み漁っていて、それが意外や意外、なんか、まあ面白くて、なんか次の診察日楽しみだなあ、なんて思ったりもしています。
さて、ここまで書いて、やっぱり自分の今の姿、去年の今頃の時点で、もしかしたら、もしかすると、なんとなく想像できていたんじゃないかな、と思ってしまう。だって、このブログを読み返してみると、あんまり楽しそうじゃないというか、いきいきしてないんだもの。いや、そもそも私は、外向的な人間でもないのだけど、とりあえず、毎朝キャンメイクのアイシャドウを付けることさえもやっとなテンションで、休みの前の日は、明後日の仕事のことで頭がいっぱいで、目覚ましよりも先に鳴る上司からの電話に疲れていたのかも、しれない。そうではないのかも、しれない。
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いや、そういうことを言いたいわけじゃない。
そうじゃないけど、とりあえず、私は、もしかしたら、毎日ほんとは、とってもかなしくて、とってもつらくて、とっても泣きたくて、とっても愛されたくて、とっても助けてもらいたくて、ずっと、ずっと、ずっと、ほんとのほんとは、しんどかったんじゃないだろうか。でも、どこかの大手広告代理店の誰かとか、隣で15時間勤務を常とするパートの上司とか、忘れたいはずの過去の私とか、そういう、今となってはもうどうしようもない他人と比較して、判断して、評価して、今の自分を必死に守りながら、いじめたおしていたんだろう。あのひとたちと比べたらアマアマ、あの頃よりマシ、やっとマイナスからゼロになれたんだから、もう戻れない、戻らない、そんな使命感にも似た自分に課した自分にしか通用しない十字架を背負っていたのかもしれない。という、まあ、そんな分析なんて、したところでどうにもならないところまできてしまった。あとはもう、火刑に処されるのみだ。さらば、マイセカンドホームタウン。
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とりあえず、今の私は、家族のために夕飯を作ろう。続きはまた今度。