え ん

人生は連鎖する、

無理しないで、の暴力性と思考停止

 

もう馬鹿みたいに青空文庫太宰治を読んでいたら、もう馬鹿みたいに太宰治のファンになってしまった。余計なことを言うけれど、太宰治も、死んだ人間の一人である。死に様は決して美しいとは言えない。というか、だいぶ迷惑な部類に入る。

 

 

 

この前、とっても久しぶりに高校時代の部活の後輩とLINEをした。彼女は今、意外と私の住んでいるところの近くで働いている。

LINEの一言欄(ステータスメッセージ?)に、「もういっそたおれたい」と書いてあったから、なんか不安になって私の方からLINEしてみた。彼女も私と同様に、高校時代には保健室登校ならぬ会議室収容されていた経験があるから、また何かあったんじゃなかろうか、と勝手に心配してしまった。もうお互いに卒業してだいぶ経つわけだし、私が心配することに何の意味もない気がしたし、たとえ彼女が倒れたからといって私がその肩をがっしりと抱きしめてあげるほど私自身も強くもないわけだけど、それでもまあLINEした。


そしたらまあ、なんか、すごい、きらきらしていた。無理して演技してんのかな?って、ぶっちゃけ勘ぐったけど、全然、バリバリの社会人だった。あはは、毎日倒れたいけど仕事めっちゃ楽しいです〜! 全然休めないけど、有給取れたらガッツリ実家に帰ります〜!って、なんかほんとに、心から楽しそうなLINEがきた。「割と毎日倒れたいけど、楽しいですよ〜」って、働く上でサイコーな価値観じゃなかろうか。きっと大事なことだ。うん。驚いたし、嬉しかったし、安心したけど。ほんのすこし、いや、かなり、羨ましかった。でも、やっぱり、嬉しい、という気持ちの方が勝った。彼女が心から活き活きといられる空間が、この世に存在していて、しかもそこに今既に、彼女が所属している。それだけで、人生って何があるかわからんなあ、と思うし、ちょっと自分の人生にも期待みたいなものを見出せたりなんかした。まあ、ちょっとおこがましい話だな。

 

 

さっきバイトをしていて、ふとブラック企業で働く人間のことを考えた。
よく、「お前が辞めても会社は痛くも痒くもない。会社が潰れる前にお前が潰れてどうする!」みたいな感じで、いいからそんなとこさっさとやめろ!って励ますブログ記事だとか自己啓発本だとか実際にそういう周囲の人間、というのがある。

私は実際、社会人として法定労働時間を大幅に上回って働いた経験もないし、私の全てを根こそぎ否定されて強奪されるまでものハラスメントに遭った経験もない。だから何も偉そうなことなんて言えないのだけど、それでもなんか、その励まし、全然的外れじゃね? と思う。的外れどころか、なんか正反対の方向向いて矢を射ってね?

 

私は、ここで辞めたら何もかもを本当に、本当に、本当の意味で、完遂できない人間になる、と思っている。思っている、というか、それは絶対真実だ。だから、意地でもバイトも短大も続ける。全ての人が全てそうではないのはもちろんその通りだけど、過去やバックグラウンド的に、ちょっとしたブランクであったり触れられたくない痛手がある人は、会社のため世のため人のため、というより、ある種の自罰的な感情で、どんなにそこが地獄の空間でもそこに居続けようとしてしまうんじゃなかろうか。もうなんか、無理しないで、とか、あまり頑張りすぎないで、とか、違うんだって。無理に決まってんじゃん。私にとっては、毎日同じ時間に起きて同じ電車に乗ることだって、一定の筆圧と筆跡で文字を書くことだって、誰かと一緒に15分以上話すことだって、無理しなければできないことなんだ。頑張りすぎたぐらいじゃなきゃ、私は私を許してあげられないんだ。無理しなければ、やってけないんだ。じゃなきゃ誰か私が無理しなかったぶんの私の後期の学費と精神的苦悩を背負ってくれ。

 

 

そう、そして、(私にとっては)
誰でも良い、っていう仕事が、とてつもなく心地よい。
私という人格を忘れさせてくれるからだ。
たとえ叱られても、それはこの私が叱られているわけではない。ひとりのデキない派遣サンが叱られているのだ。私じゃなくても出来る仕事。つまり、その時間は私は私という人間でいる必要がない。私は私から私を離してあげることができる。何という幸せだろう。目の前の仕事に集中していれば良いし、目の前の仕事が終われば聞くまでもなくまた山のような仕事が降ってくる。思考停止というのは最大の快楽かもしれない。そして、それこそが最大の悪だとアーレントは言った。その通りかもしれない。私が私から離れている間、そしてハイかイエスしかないような空気のなかで、もしも「今からたくさんのユダヤ人を殺してください」と言われたら、どうなるのか。私はエルサレムで裁判を受けるのだろうか。思考停止、本当に恐ろしいことだ。


アーレント、で思い出したけれど、最近ローザルクセンブルクに興味がある。最近、というか、だいぶ前から彼女のことを知りたいとは思っていたけれど、太宰治の『斜陽』を読んで再燃した。たしか日本ではDVD化されていないけれど、アーレントの役をした女優と同じ女優がルクセンブルクの役をしたはずだ。名前は忘れた。(バルバラ・スコヴァでした。)

あー、まったくもう。勉強しよ。ほんと、お年寄りに限らず、活字を読み書きしないと、すぐに脳みそは衰える。というか、午前3時。寝ぼけたテンションでブログ更新とか、一種の自殺行為だな。

 

戦争終わって半世紀後に生まれたんですね私。

バイトが終わった。非常に疲れた。でも、前の現場と比べたら百億倍くらい良かった。私が担当したところは全員が男性だった。良い人ばかりだった。

 

Nに謝った。ゆるしてくれたし、向こうも私に謝った。恋人じゃないのに、Yahoo!で必死に『恋人と喧嘩   LINEのしかた』と検索をかけていた私をどうか笑って欲しい。仲直りすることが良いことであるのかわからないけど、私にとってやっぱりまだNは必要なんだと思う。
いつか、彼との関係のことを、きちんとブログに記録しておきたいな、と思う。彼のことを、ただの失恋話であるとか、若かりし頃の青春、みたいな形でいつの日かの酒の肴にしたくない。でも、今はまだ書くつもりはないし、書けない。

 

ブログやらevernoteやらおにゃおにゃ書き(私の家庭では、日記のことをこう呼ぶ)を読み返すと、どうやら私がこんなテンションになり始めたのはちょうど1ヶ月ほど前のことらしい。具体的に何があったのか、というと、あると言えばあるし、無いといえば無い。偶然か必然か。重なったのか、重ねたのか。よくわからない。


昨日、後輩とご飯を一緒に食べた。バイト以外で同世代と話すのは非常に久しぶりだった。
どうしてそんなに口が動くのだろう、と、彼女の止まらない口ばかりを見ていた。喋りつづけて疲れないのか不思議に思ったが、私は極力喋りたくなかったのでちょうど良かった。
彼女を見て、いつかこの子は虎になってしまうんじゃないか、と想像した。想像すればするほど、今段階で彼女が虎にしか見えなくなって少し可笑しくなった。わかるひとにはわかるだろう、彼女は『山月記』の李徴だ。
自分を軽蔑しているだけなのか、他人を卑下することしかできないのか、どうでもいい。ただ、彼女の話を聴くのはただただ不快だった。ひとを学力的な偏差値でしか語れないのか、と思うとうんざりした。もうこれ以上親しくなりたくないな、と思った。それと同時に、結局私も私で彼女に要らぬ話をしてしまった気がして、それも加えて不快だった。

 

 

こんなテンションだからと言って、何もしていないわけではないから素直に自分を褒めてあげるべきなのかな、と思う。電車に揺られて、バイトもとりあえずちゃんと仕事して、買物行って料理して、洗濯掃除して断捨離して、あくまで自分の嗜好でしかないけど読書もして、映画も観て。まあその読書のせいでこの前かなり病んだんだけど。
あまり自分を責めなくても良いのかな、と天井を仰いでみる。いやいや、とすぐにもう一人の私がツッコミを入れる。いやいや、何言ってんの。あんなことしなきゃこんなことにならなかった、と。

 


詩を書こうと思う今日この頃。
あと、救われるために、もっともっと、社会学の勉強をしようと思う。

2017.08.13.

 
 
Nにサヨナラの挨拶をした。どうせ私のことだから、すぐにでもまた連絡を取ってしまうんだろうな、と思ったけれど、バイトが終わった今、そんなに浅い傷でもないことがわかった。ここで言う傷、とは、私だけの傷ではない。私が彼に対して向けた刃を、彼はおそらくゆるさないだろう。そして、私は、私にしかわからない傷があるのだ。今までも、これからも。
このまま、お互い何者でもない関係をだらだらと続けていても、どうせしあわせになんかなれやしない。一過性の優しさに準じて愛を感じるなんて、一夜限りのセックスのようなものだ。そして彼はそんな私に疲弊しきったのだろう。多少強引でも、これで良かったんだ。これが良かったんだ。そうでも思わなきゃ、この傷を私は穿り返すことしかできないだろう。彼と出会い、別れ、そして今日までのこの名もない関係に、私は永遠の蓋をする。だからもう、私は出来るだけNのことは考えない。出来るだけ。出来る、だけ。
 
鬼束ちひろの曲ばかりを聴いている。特に病んでいる時でない時でも聴いているけれど、改めて彼女の曲を聴くと、やっぱり彼女の良さと言うか、狂気という名のSOSを手に取るように理解することができる。いや、それは嘘だ。彼女の領域には私は入り込めない。そして同時に、彼女の曲を聴きこの感情を抱く私のなかにも、誰も入り込めない。当然だ。そして、それが正しい。
 
ヴァージニア・ウルフの日記と、彼女の夫に対する遺書を読んだのがまずかった。あまりにも、あまりにも私は彼女に近い場所にいる気がした。彼女が私の右肩にいる、そう思った。彼女は59歳で死んだ。数々の苦難やトラウマや壁を、乗り越えて乗り越えて乗り越えて、そして59年目で死んだ。つまり、彼女にも22歳の頃があったのだ。59歳で自殺した彼女にも、私と同い年だった頃があったのだ。
 
 
 
バイト先の同僚と初めて連絡先を交換した。
こういう関係は敢えて遠ざけてきたのだけど、彼女には心を許してしまった。未来の私はこのことを後悔するのだろうか。何したって、みんな行ってしまうのに、と。
 
 
疲れた。
寝る。
 
 

 

ある作家の日記 [新装版]

ある作家の日記 [新装版]

 

 

 
 
 

三日間の日記。

 

2017/08/03 thu

失敗や過ちの数だけ強くなれる、だとか、何事も経験になる、無駄なことなんてひとつもない、みたいな言葉がとても苦手だ。ただの捻くれ者、或いはこじらせ女子、ってだけだと言われたらそれまでだし、なんの異論もないのだけど、最近の私は特に「変化」「成長」「進歩」を怖れているような気がする。


以前は逆だった。昔からの私を知る友人に、「変わったね」って言われることが嬉しくて嬉しくて堪らなかった。そうでしょ、変わったでしょ、私は前の私と違うのよ、って、みんなにアピールしたかった。もし、今の私があの頃に戻れたら、きっともっと上手くやれたと思うの。そう言って、多くの別れや決断を悔いたり、その頃の私を軽蔑した。

でも実際、そこまで変わることにこだわる必要があったんだろうか。成長することに意義があったんだろうか。だって私が忌避する私にも、私を想ってくれる人はいた。私のことを応援してくれる人や肩を貸してくれる人はいた。それも、一人や二人じゃない。今考えれば、高校の頃のクラスメイトや部活の仲間たちは、私のことを本気で考えてくれていたじゃないか。先生は私を本気で想っていたじゃないか。


前の大学を中退してから、一緒にお茶した教授に言われたことがある。

「あなたはいつも、あなただけが傷ついたような顔して過去を語るけど、そんなこと決して無いから。あなたが入院していた頃、ずっとあなたの分のプリントをとっておいてくれていた同じ学科のあの子のこと、あなたは覚えてる? あなたが大学を辞めると決断した時、あなたを期待していた私がどんな気持ちになったか、あなたにはわかる?」


ーー私は、本当に、変わる必要があったのだろうか。

 


いや、変わらないままでいることなんて、実際は出来るはずがない。日々、人は生きている限り社会のなかで多くの人と出会い、関係を築き、何かを感じ、行動する。そうやって自分のなかで自分なりの考えや哲学はアップデートされていくものだ。今、こうしているこの瞬間にだって。

焦りすぎたのだろうか。
成長した結果や行き着いたゴールが明るくなければ、自分が思い描く最大限の理想像と合致していなければ、しかもそれは出来るだけ早急に達成していなければ、私はダメだった。ダメになってしまうと思った。再起不能。もう二度とどこにも行けない気がした。

わからないな、と思う。
焦って焦って焦って、ようやくたどり着いたこの地で、私はどこにも行けていない。何にもなれていない。

 

 

2017/08/04 fri

 

なぜこんなに上手くいかないのだろう、と考える。努力、という二文字にいつも追いかけられているような気がする。きっと、これは私だけじゃない。現代社会においては、経済的にも社会的にも精神的にもヒエラルキーの上位に立つものは、”努力” してきたからだ、という風潮がある。すなわち、下位の者は怠慢である、というわけだ。努力。努力。努力。それはそうなのかもしれない。資本主義における正義のヒーローはいつだって努力してきた。努力する上のエンジンが備わっていない人間は、そこでは抹殺されている。


とは言え、そんなことを言う権利は、おそらく私にはないだろう、どんな方法、環境、背景があったかなんて、関係ない。私は今、高等機関の学生証を持っている。六畳一間の私だけの住所も存在する。冷蔵庫のなかには少しの野菜も入っている。蛇口をひねれば毎日シャワーを浴びることも出来る。

何より、今の私の居場所のほかに、私には帰る場所も、待ってくれるひともいる。

何の不服があるだろう。
何の不足があるだろう。
何の不穏があるだろう。

今の私は、現代社会における努力論を語るより、さっさとその努力論に則ってただただコツコツと努力するしかないじゃないか。今の私こそが怠慢者だ。

 

 

2017/08/05 sat

昨日の20時から今日の5時にかけて、生まれて初めての夜勤のバイトをした。45分休憩が2回あったけれど、それ以外はずっと小走りで動きっぱなしだった。きっと怠慢者ではなかった、と思う。とても久々にブラックの缶コーヒーを飲んだが、水のような味がした。

6時頃に帰宅して、顔を洗い、炊飯器をセットし、バシャバシャと化粧水をつけて半ごろに眠った。目覚めたのが11時半だった。悪くなかった。シャワーを浴びた後、掃除と洗濯をして、炊き上がったご飯を食べた。今は14時。あと1時間半後はバイトへ行く時間だ。今日は22時まで働く。明日は21時まで働く。きっと怠慢者ではない、と思う。

 

最近、完全に思考能力が落ちている、という自覚が強くある。

入院していたときの感覚に少しだけ似ている。私の頭のなかから、ありとあらゆる語彙や計算能力がポロリポロリとこぼれる。難しいことが考えられない、というか、効率的に物事を解決するための手段が思いつかない、というか。難しいことを整理するための引き出しが、立て付けが悪くて開かない、というか。なんかよくわからないし、もちろん入院していた頃よりはずっとマシなわけだけど、ああ、ちゃんと勉強しなきゃな、と自戒した。図書館から借りた本も、延長手続きをしたにもかかわらず、まだ読み終わっていない。

 

この前、中学時代の恩師と飲んだ。何の話からそういう話になったのか、いまいち覚えていないのだけど、先生が、

「『公務員で良いよなあ』って、しょっちゅういろんな奴らに言われるけどさア、そんなこと言うんだったら、んなもんなれば良かったじゃん、って思うんだよね。」

と、生をぐびぐびしながら笑った。

きっと、私に対して、そう言ったんだろうな、と、思い返している。

社会科教員を目指していたのに、四年制大学そそくさと逃げ去った私。社会人もなりきれずに逃げて、今度もまた、短期大学で行き詰まりを感じている私に対する、先生なりの最大限の戒めだったのかな、と。いや、考え過ぎかもしれない。

 

とにかく、この先のこと、もっとちゃんと考えなきゃ、な。 14:27。あと1時間。

 

 

2017/07/16

 

今日は総じて気分が上がらない1日だった。私は、いつだって気分上々なわけではないのだけれど、今日は特に、非常に、気分が優れない1日だった。まあ、365日24時間コンビニの蛍光灯のようにぴかぴか眩しいテンションの人間なんて居ないだろうし、人と比べても、そこまで憂鬱な人間でもないと私は自分でそう思っている。人がどう思っているのかは知らない。

 

今日は午前9時頃に目が覚めた。全く、前記事で起きる時間を決める、なんてカッコいいこと並べていたくせに、このザマだ。昨日、バイトが終わって帰宅後、ふと映画を観たくなって夜中の2時過ぎまでNetflixで観たのがまずかったか。いや、まずくないはずだ。『ハドソン川の奇跡』を観た。実話をもとにしたニューヨークの映画だ。ちっとも英語を意味として聞き取ることは出来なかった。改めて、戸田奈津子さんや松浦美奈さんは凄いなあ、と思う。いや、この映画の字幕翻訳家が誰なのか調べてないけど。たぶん、どっちかだと思う。とにもかくにも、この映画を観たことに後悔はない。時間帯がまずかっただけだ。

 

9時頃に目が覚めたとはいえ、そこから活発的に行動できたわけでもない。ボンヤリと母とLINEをしながらだらだらと共謀罪について調べていた。日本国憲法のレポートを2本仕上げなければならないのに、まだ1本めのネタすらふらふらしていた。現代美術のレポートはとりあえず第1章の4分の3を書き終えた。この前行ったジャコメッティの作品について。

 

アパートのなかにいても暑いし息詰まるし、と、バイトまでまだまだ時間はあったが適当に化粧して外に出た。セブンイレブンで100円のアイスコーヒーを買った。店員が同級生だった。そこまで親しくないひとに対する挨拶や表情の具合が私にはわからない。向こうは店員スマイルだった。あそこのコンビニは、 何故か異常なほどみんな元気だ。そう、ぴかぴか眩しい蛍光灯のように。

 

アイスコーヒーを片手に、かなり日陰になっている川縁に座った。ボンヤリとした。向こう岸のベンチに、70歳くらいのおじいさんが疲れ果てたように座っていた。あしたのジョーみたいだった。何が彼をそこまで絶望に追いやったのだろうと考えた。ただ単に暑かっただけなのだと思う。

そこでも母とLINEをした。夏休み、私は今のバイト先にプラスしてもう1つ掛け持ちをするのだが、そこで履く服を母が買ってくれた。バイト。バイト、か。

 

母は、終わり際、「頑張ってね」と私に言った。「私も頑張るから」と。

不思議だな、と思った。

頑張って、という言葉にあれほどの拒否反応を起こしていた私は、今、この言葉がとても好きだ。いや、もちろん、この言葉が持つある一定の暴力性だとか、危険性だとかは、今でも十分過ぎるほど承知しているし、わざわざここに文章化する必要性も無いだろう。私はひとに進んでこの言葉を掛けたことは無いし、この先も無いだろう。けれど、母からこの言葉を掛けられた時、なんと言うか、むしろとても嬉しい、と思った。頑張って。がんばって。ガンバッテ。gannbatte。ああ、自然と、本当に自然と無意識に、母が私に対してこの言葉を掛けられるほど、私は母から、母は私から、離れることができたんだな、そういう感覚だ。無責任、という言葉が果たして適切なのかはわからない。けれど、少なくとも、今の私の母は、「常に」「共に」「頑張り続ける」「同志」ではないんだな、と思った。私たちはもう、別々の個体で、お互いがお互いに対し、「頑張って」と言えるほどの関係性に落ち着いたんだな、と。悪く無いことだ。

 

アイスコーヒーが無くなって、しばらくその川縁に居たけれど、お尻が痛くなったので早めに電車に乗ることにした。13時だった。いつもは16時ちょっと前の電車に乗る。

本厚木駅で降りた。私はこの街はあまり好きではない。厚切りジェイソンもあゆコロちゃんも好きだし、今もホームに流れるいきものがかりの『エール』も良いなあ、と思う。ただ、個人的にあまり良い思い出がないからなだけかもしれない。

本厚木駅から直で中央図書館に入った。あまり涼しくもないし、朝刊の新聞はしわくちゃだった。子どもの声が響いて少し不穏になった。私は子どもが嫌いなのではなく、高くて大きくて不安そうで苦しそうな声や音が苦手なのだ。

しばらくそこで、上野千鶴子の『構築主義とは何か』を読んでいた。デリダの「脱構築」やスピヴァクの「戦略的本質主義」を正しく理解する上で、この構築主義は最も重要な理解の1つだろうと思う。でも、途中まで読んで、やっぱり専門知識を知ることは怖いなあ、と思って本棚に戻した。せめて来週の水曜、すなわち7月26日までは、私は「知識人」になりたくなかった。

 

そのあとブックオフに入った。村上春樹の『アフターダーク』が216円で売っていた。この話は、盛岡の県立図書館で借りて読んだ。村上春樹の作品のなかで、私はこの話が一番好きだ。主人公が私に似ている、初めて読んだ時、そんな気がしていた。でも今思えば、あれを読んでいた当初の私は、エリのほうだと思う。

キャッシュを持ち歩いていなかったので、本を購入するつもりはなかった。私はブックオフより2つ上の階に上がり、そこの勉強スペースで少しだけ予習をした。隣の女子高生がベクトルの問題とにらめっこしていた。ああ、私はこの先の人生で、アルファベットの上に→を書いたり、∫だとかsinだとかΣだとかで頭を悩ませることがあるのだろうか、と思った。妙に彼女が羨ましくなった。

 

バイトの時間が近くなり、慌てて駅へ戻った。途中でなんとか、っていう俳優さんがドラマのロケをしていた。私はもう長いことテレビを観ていないから、よくわからなかった。

 

バイトはいつものようにいつものメンツがいつもの順序でいつもの挨拶を交わしながらいつもの仕事をした。どうやら私はこのバイトを始めてもう直ぐ半年になるらしい。夜のシフトのメンバーのなかでは、私は7人中3番目の人間になった。たかが半年。されど半年。いや、やっぱり、たかが半年だ。だから、私はこのバイトをまだ続ける。納得するまで、あるいはさせるまで、続ける。だれに納得してもらいたいのか、書くまでもないだろう自分よ。

 

終わり際になって少しハプニングがあって、結局いつもより遅めにタイムカードを切った。帰りに寄りたい店があって、反対方向へ歩いた。驚くほど酔っ払った若者で溢れていた。真っ赤なワンピースをヒラヒラさせながら男にもたれかかり、ガッコン、ガッコン、と歩いている女性が印象的だった。地面に転がった無数のビールの空き缶やゴミたちをぼんやりと眺めた。警官と目が合った。何にもないわけもないだろうが、彼も彼で、ぼんやりと若者たちを眺めていた。そんなことをしていたから、寄りたい店の閉店時間も近くなり、寄る意味も無くなったのでそのまま電車に乗った。

 

電車のなかでは少しだけ本を読んだ。ルース・ベネディクトの『菊と刀』。ラダー文庫で入っているだけあって、そこまで難しい英文ではない。日本人の義理について長ったらしく章立てしてまで書いていた。まあ、面白くないわけでもない。ただ、疲れていたし、すぐに飽きてしまった。

 

最寄駅にチェーン店の牛丼屋さんがあって、いいなあお腹空いたなあ、と思った。通りかかるまではしたけど、PASMOで牛丼を食べるのはなんか嫌だった。現金だろうとPASMOだろうと、何も変わらないのだけど、なんかそういうのが嫌だった。結局そのまま通り過ぎた。

 

随分と長い1日だったように思う。

とても疲れた。明日は世間では祝日らしい。

私は歴史学の講義を受ける。そろそろ図書館で本を返さなければならないし、レポートもいい加減終わらせなければならない。そういいながら、結局1時半を過ぎている。

 

なぜ気分が上がらなかったのか、よくわからない。

ただ、都会の日曜日は好きになれないな、と思った。

こういう文体で日記を書くのも悪くないな、と思った。

セブンイレブンのアイスコーヒーは、やっぱり美味しかった。