え ん

人生は連鎖する、

2017/07/16

 

今日は総じて気分が上がらない1日だった。私は、いつだって気分上々なわけではないのだけれど、今日は特に、非常に、気分が優れない1日だった。まあ、365日24時間コンビニの蛍光灯のようにぴかぴか眩しいテンションの人間なんて居ないだろうし、人と比べても、そこまで憂鬱な人間でもないと私は自分でそう思っている。人がどう思っているのかは知らない。

 

今日は午前9時頃に目が覚めた。全く、前記事で起きる時間を決める、なんてカッコいいこと並べていたくせに、このザマだ。昨日、バイトが終わって帰宅後、ふと映画を観たくなって夜中の2時過ぎまでNetflixで観たのがまずかったか。いや、まずくないはずだ。『ハドソン川の奇跡』を観た。実話をもとにしたニューヨークの映画だ。ちっとも英語を意味として聞き取ることは出来なかった。改めて、戸田奈津子さんや松浦美奈さんは凄いなあ、と思う。いや、この映画の字幕翻訳家が誰なのか調べてないけど。たぶん、どっちかだと思う。とにもかくにも、この映画を観たことに後悔はない。時間帯がまずかっただけだ。

 

9時頃に目が覚めたとはいえ、そこから活発的に行動できたわけでもない。ボンヤリと母とLINEをしながらだらだらと共謀罪について調べていた。日本国憲法のレポートを2本仕上げなければならないのに、まだ1本めのネタすらふらふらしていた。現代美術のレポートはとりあえず第1章の4分の3を書き終えた。この前行ったジャコメッティの作品について。

 

アパートのなかにいても暑いし息詰まるし、と、バイトまでまだまだ時間はあったが適当に化粧して外に出た。セブンイレブンで100円のアイスコーヒーを買った。店員が同級生だった。そこまで親しくないひとに対する挨拶や表情の具合が私にはわからない。向こうは店員スマイルだった。あそこのコンビニは、 何故か異常なほどみんな元気だ。そう、ぴかぴか眩しい蛍光灯のように。

 

アイスコーヒーを片手に、かなり日陰になっている川縁に座った。ボンヤリとした。向こう岸のベンチに、70歳くらいのおじいさんが疲れ果てたように座っていた。あしたのジョーみたいだった。何が彼をそこまで絶望に追いやったのだろうと考えた。ただ単に暑かっただけなのだと思う。

そこでも母とLINEをした。夏休み、私は今のバイト先にプラスしてもう1つ掛け持ちをするのだが、そこで履く服を母が買ってくれた。バイト。バイト、か。

 

母は、終わり際、「頑張ってね」と私に言った。「私も頑張るから」と。

不思議だな、と思った。

頑張って、という言葉にあれほどの拒否反応を起こしていた私は、今、この言葉がとても好きだ。いや、もちろん、この言葉が持つある一定の暴力性だとか、危険性だとかは、今でも十分過ぎるほど承知しているし、わざわざここに文章化する必要性も無いだろう。私はひとに進んでこの言葉を掛けたことは無いし、この先も無いだろう。けれど、母からこの言葉を掛けられた時、なんと言うか、むしろとても嬉しい、と思った。頑張って。がんばって。ガンバッテ。gannbatte。ああ、自然と、本当に自然と無意識に、母が私に対してこの言葉を掛けられるほど、私は母から、母は私から、離れることができたんだな、そういう感覚だ。無責任、という言葉が果たして適切なのかはわからない。けれど、少なくとも、今の私の母は、「常に」「共に」「頑張り続ける」「同志」ではないんだな、と思った。私たちはもう、別々の個体で、お互いがお互いに対し、「頑張って」と言えるほどの関係性に落ち着いたんだな、と。悪く無いことだ。

 

アイスコーヒーが無くなって、しばらくその川縁に居たけれど、お尻が痛くなったので早めに電車に乗ることにした。13時だった。いつもは16時ちょっと前の電車に乗る。

本厚木駅で降りた。私はこの街はあまり好きではない。厚切りジェイソンもあゆコロちゃんも好きだし、今もホームに流れるいきものがかりの『エール』も良いなあ、と思う。ただ、個人的にあまり良い思い出がないからなだけかもしれない。

本厚木駅から直で中央図書館に入った。あまり涼しくもないし、朝刊の新聞はしわくちゃだった。子どもの声が響いて少し不穏になった。私は子どもが嫌いなのではなく、高くて大きくて不安そうで苦しそうな声や音が苦手なのだ。

しばらくそこで、上野千鶴子の『構築主義とは何か』を読んでいた。デリダの「脱構築」やスピヴァクの「戦略的本質主義」を正しく理解する上で、この構築主義は最も重要な理解の1つだろうと思う。でも、途中まで読んで、やっぱり専門知識を知ることは怖いなあ、と思って本棚に戻した。せめて来週の水曜、すなわち7月26日までは、私は「知識人」になりたくなかった。

 

そのあとブックオフに入った。村上春樹の『アフターダーク』が216円で売っていた。この話は、盛岡の県立図書館で借りて読んだ。村上春樹の作品のなかで、私はこの話が一番好きだ。主人公が私に似ている、初めて読んだ時、そんな気がしていた。でも今思えば、あれを読んでいた当初の私は、エリのほうだと思う。

キャッシュを持ち歩いていなかったので、本を購入するつもりはなかった。私はブックオフより2つ上の階に上がり、そこの勉強スペースで少しだけ予習をした。隣の女子高生がベクトルの問題とにらめっこしていた。ああ、私はこの先の人生で、アルファベットの上に→を書いたり、∫だとかsinだとかΣだとかで頭を悩ませることがあるのだろうか、と思った。妙に彼女が羨ましくなった。

 

バイトの時間が近くなり、慌てて駅へ戻った。途中でなんとか、っていう俳優さんがドラマのロケをしていた。私はもう長いことテレビを観ていないから、よくわからなかった。

 

バイトはいつものようにいつものメンツがいつもの順序でいつもの挨拶を交わしながらいつもの仕事をした。どうやら私はこのバイトを始めてもう直ぐ半年になるらしい。夜のシフトのメンバーのなかでは、私は7人中3番目の人間になった。たかが半年。されど半年。いや、やっぱり、たかが半年だ。だから、私はこのバイトをまだ続ける。納得するまで、あるいはさせるまで、続ける。だれに納得してもらいたいのか、書くまでもないだろう自分よ。

 

終わり際になって少しハプニングがあって、結局いつもより遅めにタイムカードを切った。帰りに寄りたい店があって、反対方向へ歩いた。驚くほど酔っ払った若者で溢れていた。真っ赤なワンピースをヒラヒラさせながら男にもたれかかり、ガッコン、ガッコン、と歩いている女性が印象的だった。地面に転がった無数のビールの空き缶やゴミたちをぼんやりと眺めた。警官と目が合った。何にもないわけもないだろうが、彼も彼で、ぼんやりと若者たちを眺めていた。そんなことをしていたから、寄りたい店の閉店時間も近くなり、寄る意味も無くなったのでそのまま電車に乗った。

 

電車のなかでは少しだけ本を読んだ。ルース・ベネディクトの『菊と刀』。ラダー文庫で入っているだけあって、そこまで難しい英文ではない。日本人の義理について長ったらしく章立てしてまで書いていた。まあ、面白くないわけでもない。ただ、疲れていたし、すぐに飽きてしまった。

 

最寄駅にチェーン店の牛丼屋さんがあって、いいなあお腹空いたなあ、と思った。通りかかるまではしたけど、PASMOで牛丼を食べるのはなんか嫌だった。現金だろうとPASMOだろうと、何も変わらないのだけど、なんかそういうのが嫌だった。結局そのまま通り過ぎた。

 

随分と長い1日だったように思う。

とても疲れた。明日は世間では祝日らしい。

私は歴史学の講義を受ける。そろそろ図書館で本を返さなければならないし、レポートもいい加減終わらせなければならない。そういいながら、結局1時半を過ぎている。

 

なぜ気分が上がらなかったのか、よくわからない。

ただ、都会の日曜日は好きになれないな、と思った。

こういう文体で日記を書くのも悪くないな、と思った。

セブンイレブンのアイスコーヒーは、やっぱり美味しかった。