決断するということ。
生きていくことは、迷うことであり、選ぶことであり、歩くことであり、惑うことであり、揺らぐことだ。
死ぬということは、止まるということだ。
私はこれまで、多くの選択肢を与えられ、ひとつひとつ、吟味しながら、時に、盲信に陥ったまま猛進し、自分の人生を歩んできた。これだけははっきりと言える。今の私は、全て今の私の選択、そしてその結果だ、と。
何か信じる基盤がないと、人は選ぶことができない。
どちらかを選ぶことで、その片方を失うことになっても、きっと人生は続いていくし、だいじょうぶ、歩いていける。そんな「根拠のない」自信は、おそらく幼少期からの無条件で無限大な愛情を注がれた経験から生まれたものだろう。また、たとえ失った片方の存在があまりにも大きすぎても「何とかなる」と思える楽観的思考は、確実に帰れる安全基地や自分の確固たる居場所が確立している証拠だろう。
いや、
時には、迷う余地すら与えられず、否応無しに選ばされ、失わされ、気がつくと今、自分がどこにいるのか、わからなくなることもある。そういう時は、どこに戻れば良いのかもわからないまま、ただ、ただ、頂上を目指すことだ。登山では、下山しようとする者こそが遭難する。立ち止まることも、後退することも、ゆるされないのだ。
私は、今まで、自分の人生で多くのものを落としてきた、と思ってきた。
気がつくと手のひらは空っぽだった。振り返ると、手元にあったはずのものが散らばっていた。それらも、そしてそこまで歩いてきた足跡も、すぐに真っ白な雪で覆われ、無かったことになった。元からそんなものは無かった、そういうことになった。‥‥‥と、思ってきた。
けれど今、ここにこうしてこの感情を胸にした私がいる。
決断するということ。
私の意思でここまで歩いてきたということ。
私が、選び、捨て、手に取り、放り投げ、正しさと過ちを繰り返し、運を嗤い、運に嘆き、それでも「生きる」ことをやめなかった私が、今、ここにいる。
それが、私が私であり、私であり続けることであり、より私として私になる、ということなのだ。