え ん

人生は連鎖する、

振り子のような、

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七連勤を終え、今日と明日は連休だ。あとはしばらく連休がない。今日はひとりで東京へ行った。

2時間近くかけて都内に出て、大手町をぐるりと歩いて、そのあと銀座をぐるりとまわって、何も買わずに東京駅の地下で380円のそばを食べて、そしてまた2時間近くかけてバスで帰ってきた。

ひたすら歩いた。スマホも時計も持たずに家を出て、正解だった。



都内で働くひとたちは、なぜ首から下げたネームプレートをあまり外さないのだろう。名前も所属先もポジションもよく見える。
大手町を歩いていたら、当然のことだけど、みんな働いていた。良質そうなスーツに、艶やかな革靴を履いた同世代の男性と幾度となく擦れ違った。電車で隣り合わせた女性は、きりりとした表情でパソコンに向かっていた。

銀座で、就活をして二次面接で落ちた会社の前を通りすぎた。三次面接のあとの健康診断で落ちた会社のひととも擦れ違った。本当に、私は都内で働く人間を目指していたのだろうか。ふと疑問が湧く。本当に、そうなのか?


 
WeとTheyの違いを、短大生の頃によく考えていた。
私たち、という言葉は、時にひとを温め、そしてまた違うひとを傷つける。Weという言葉のなかには友情であるとか、絆であるとか、共通項で囲われた温度がある。けれど、その先に、必ずアウトサイダーが存在する。そうでなければWeなんて言葉、必要ないのだ。

私は彼らとは違う。漠然と、そんな気がした。 

この感覚は今に始まったことじゃない。私はいつだって、そうやって何かと何かを区分けするきらいがある。高校時代に文系トップをひた走っていた友人に言われたことがある。私たちとしおりちゃんは違うから、と。確かに、あまりにも彼女たちと私はかけ離れていた。何が? テストの点数や偏差値、先生からの期待度など以前に、根本的、原始的な何かが違うようにあの頃の私には感じられていた。けれど、何が? 何が違うのだろう?  


最近の私の口癖は、「こんなんじゃだめだ」。自覚している。いつも、こんなんじゃだめだ、もっと上手くやれるはず、もっと上に行けるはず、もっときちんとできるはず、と思っている。
よく言えば、向上心がある、と評価に値するように思えるが、危険だなあ、と私は思っている。

無能な完璧主義者ほど厄介なものはない、と、どこかのサイトにかかれていた言葉が、私の胸にべったりと貼り付いている。私はこの言葉に深く傷ついた。傷ついた、というのは、私が勝手に傷ついただけだ。


自分が満足するものは何なのだろう。わからないけれど、今考えられる極限の私の理想を叶えたとき、私は今の私ではない私になるだろう。その時の私は、今の私を傷つけるだろう。今、あの頃の理想の私になっている。縁もない土地で一人暮らしをしながら毎日スーツを着て仕事している私、、、


自分がたまに醜く感じる。考えすぎだと思う。まして、考えているわりに矛盾したことばかりだ。しかも大抵、ろくでもない。




帰りのバスで、先輩と会った。立場というものを考えさせられた。組織のおいて、個人の知識や思考なんて、あまり関係ないのだ。立場がすべて、モノを言う。私もそうだ。私が考えていることなんて、どんなにそれが私のなかで最大の真理だとしても、そしてそれが、たとえ一般化した正義だとしても、新卒半年目のぺーぺーの言うことなんて、関係ないのだ。




何が不満なのだろう。
毎日悶々としている。音程の狂ったヴァイオリンをひたすら耳元で聞いているような、そんな気持ちだ。だからといって、何があるわけでもない。朝が来れば制服を着ている。

仕事をやめたいと思ったことは、ある。きっと大多数の社会人がそうであるように、まるで地下水のように、心の奥底で四六時中思っている。時折それが湧き出てくるが、実際に何かしらの実行を移すとは考えにくい。辞めたいけど、の「けど」のなかには、私は奨学金返済しかないのではないか。返済したあとは? そんなこと想像もできないし、その頃の私は各々のイベントをするに適した武器を失っている気がする。そう思ってしまう自分に腹が立つ。



こんなんじゃだめなのだ、と、ここまでやってきた、の振り子が、大きく乱れているのだと思う。この記事も、だれかを傷つける材料になり得ている気がする。恐ろしい。ごめんなさい。私も私によって傷ついている。



マルクスも、こうやって振り子のような自分を諫めるために、そして自身を暖めるために、『自省録』を著したのだろう。彼の言葉は、もう何年もの間の私の軸だ。