ダイバーシティってどこの街ですか?
スマホでブログを更新すると、不思議なところで文字が大きくなるのですが、まあ特に気にせずにいきましょう。
、
どんなことがあっても、
たったひとつだけ、譲れないものがある。
私はこの色を愛しているということ。
そこに私の全てが尽きると言っても過言ではありません。
📎📎📎
生きていれば、良いことも嫌なこともあります。とんでもないくらいの理不尽な状況に追い込まれることもあるし、気がつくと自分が他者にそういう環境へ追い込んでいる場合もあります。
今日、多文化共生社会をテーマにした講義があったのですが、教授が、学生の顔を伏せさせて、日本は移民や難民をより受け入れるべきかどうか、と質問を投げかけました。
私がどちらに手を上げたのか、また他の学生はどういう反応を示したのか、そこは今回私が書きたい内容ではないので割愛します。
教授はその90分の講義内で、第三世界を知る上での私たちの誤解、パレスティナ人であるサイードの理論、スピヴァクのサバルタン研究等についての学説などを取り上げました。いわば、weとtheyの関係、他者とは何者であるのかという考察についての講義でした。
最近最も私が考えていたことだったので、とても興味深く受講していたのですが、やっぱり私は気になってしまうのです。
私が通う大学は、他国籍を持つ学生や教授がそれなりに多くいます。また、キャンパスがある市内も、比較的外国人の方が多いので、そういう人達のためのボランティア団体や支援活動も活発です。英語科なのだから当然と言ったら当然なのですが、それを売りにしているみたいです。
その説明をするとき、必ず教授も学生も、「多文化」「多様性」という言葉を使います。うちは多様な学生を受け入れています、と。
ふうーーーん😑
って思っちゃうんですよね。
彼らにとっては、国際的な相違だけが、多様性なんだな、と。
それって、スピヴァクの一番伝えたかった、「認識の暴力」、そのものじゃないのかな?
たとえば、
身体障害者を受け入れた事例がないこと。
アスペルガーの学生を、ほぼ放置をしていること。
合理的配慮が、先生方によってあまりにも差異があること。
ほとんどの教授、講師が、出身校が同じであること。
バイだとカミングアウトした友人が、そのことで今も人間関係を中々営めないこと。
家族を大切にすることや両親を愛しているひとたちが多く、他者にそれを要求する傾向が強いこと。
比較的裕福な家庭育ちが多いこと。
両親ともに大卒者が多いこと。
何より、
私が並々ならぬ違和感を毎日感じていること。
パッと思いついただけでも、多様性っていう定義を改め直したほうが良いのではないか?と、少し疑ってしまう。
別に、絶対にそういうマイノリティを受け入れろと言いたいわけではありません。
でも、無意識のうちに、自分たちは自分たちの知らない人間を抹殺している可能性があることは、本当に、本当に、肝に命じておくべきだと思います。
サバルタン研究をすることで、余計にサバルタンの人間をサバルタンとして固定させてしまうこのジレンマと、私はもっともっと向き合っていきたいと思います。これは、私にとって、自分という存在ときちんと向き合うことと同義です。