え ん

人生は連鎖する、

他者の奥に隠れた自己批判。

 

こんばんは。
木曜日ですね、木曜日。Thursday。ふふ、曜日感覚がある自分カッコいい←


まあ実を言いますと、ブログを書くんならその隣にある文献を読んだりWordやらパワポやら開いたりTOEICのお勉強したりバイトの仕事内容覚えたりしなきゃならないような気がするんですけどね。まあ木曜日だから許しましょう(ん?)

 


最近のわたしは、一日中予定が入らない日だったり、友達とショッピングや主要駅に行ったりする時間だったりっていうものが無くなっているんですね。まあ後者はもともとだったりするんじゃないかっていう憶測は憶測のまま蓋をしておきましょう。開けたらけむりもくもくおばあさん👵🏼になっちゃうからね、うん。
つまり、週7ペースで毎日なにかしらエイヤホイサと🏃🏻🏃🏻🏃🏻社会のなかで生きているのです。単に大学とアパートとバイト先を往復しているだけじゃないかっていう憶測は……(以下略)

もしかしたらまあそれって現代人ならトーゼンのことで、月から金まで自分の社会的身分や地位のある場で活動して、土日は家族サービスだったりボランティアだったりサークルだったり平日に出来ない運動を展開しているひとが大半なのかもしれません。でも、わたしにとってこれってかなりの前進だったりするんです。今まで洞窟で壁画を描くことしかできなかった原始人が、突如モネやピカソのもとで修業を積んでいるようなものです。ちなみにわたしはダリが好きです🕶🕶


ここで私の毎日をちょっとお話すると、月曜火曜金曜と朝から夜まで学校で引き籠り。水曜土曜日曜とバイトで東奔西走右往左往。木曜は社会学の講義と病院に行くって感じです。

つい数ヶ月前まで社会的👨‍👩‍👧にも精神的❤️にも物理的📮にも、ほとんど他者と関わることがなかった私が、このようにtrainingした上でeducationとemploymentを手に入れてしまった。
しかも、意外となんとなく楽しくやれている(辛いことや大変なことがあるからこそ)。
しかも、日に日に学問の魅力に取り憑かれ?、勉強する姿勢や貪欲さがパワーアップ。ぐんぐん成長。カルシウム大切。みんな牛乳🍼🍼🍼飲もうね。
忙しいし疲れるし眠いし頭痛いんですけど、こうやって毎日を充実させています。

それだけど、
じつは周りを見渡すと、そんなでもないひとって、やっぱいるんですよね。
講義中にSUMAHOやMASUKARAとおともだちごっこしているひととか、ほとんど勉強していないくせに「私だめだあバカだあ」って落ち込んでいるひととか、ひたすらなんの進歩も生産性も無い愚痴をこぼし続けるひととか。

この前、
憧れかつ大切な友達である人から、「自罰的だしストイックだね」って言われたんですけど、その矛先が最近は他者に対しても向けてしまうようになっているんです。
ストイックかどうかは自分では全然わからないですけど、自虐することで自分を保とうとしたり、自分を罰したり罪意識を過度に持つことで他人からの圧力やしがらみを避けようとしてきたことは、大いに認めます。今まではとにかく自分だけにその武器🔨⚒🛠⛏🗡⚔🔪を使って自爆テロを犯し、味方であった人たちにも被害をくらませたりしていました。

その武器を他者に向けはじめたわたしは、
心の中でその他者と過去の自分を同一視させ、今の自分よりも下位な存在であると見なしているように思われます。恐ろしいですね。最低ですね。


大学生なら勉強を頑張るのが当然の義務であると思うし、
そこまで勉強を頑張ってないくせに留学だ編入だと騒いでいるのは「馬鹿」と思うし、
留学資金どころか秋学期の学費のために稼いでいる自分より、
処方されたくすり飲みながら一人暮らしをしている自分より、
なにも苦労も苦難も経験なしに留学資金を親から得られるひとを下に見ている。


うまく表現できないのですが
オトナからしたら、もしかしたらわたしの方が称賛に値するし正論だと頷いてくれるかもしれないけれど、
明らかに、過去のわたしはなんの生産性も合理的な思考も持たないくずだったのです。その頃の自分を、他者を媒介させて馬鹿にしているのです。他者は他者の人生があって、わたしにはなんの関係も持たないにも関わらず、土足で他者のエリアに踏み込んでいるのです。他者と今の自分という明快な区別に、独断的な価値を付加させているのです。今のわたしは1930年代前半あたりのちょっと調子に乗り始めたヒトラーを彷彿させます。1933年、全権委任法成立。受験生覚えてね。


過去の自分が残していった泥にまみれた足跡を
完全に拭き取るまで、まだまだ時間はかかりそうです。
本当の意味で、自分を見つめるストイックな人間に、ワタシハナリタイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真面目であることは強みか問題。

 

 

 

みなさん、「真面目だね」ってひとから言われたこと、ありますか?

 

l最近特に、私はひとからこう言われる。

真面目だね〜〜📕真面目だね〜〜📗真面目だね〜〜📘真面目だね〜〜📙と。

 

いや。正直に言うと、これは最近に限ったことじゃない。

事あるたびに、この言葉を投げかけられてきた。

まあ、黒っぽい髪とメガネと文庫本という三種の神器があれば、誰でも真面目そうに見える気するけど。

 

 

 

 

 

真面目だね。

 

 

これって、ホメコトバなのかな?

 

私は基本的に、精神的ヒッキーで人間不信的な傾向が未だに強いので、余計に勝手な被害妄想を頭の中で生産し続けているだけなのかもしれないけれど🙈

 

なんだか

真面目だねってひとから言われるたびに、苛々しちゃう。

馬鹿にされているだけな気持ちになるというか。

 

真面目だねって言われるくらいなら、頑張ってるねって肩叩かれたいし。

真面目だねって言われるくらいなら、私といっしょに頑張って欲しいし。

贅沢ですねえ……👑💍🕶💄👠

 

 

 

 

そもそも、真面目ってどういうことでしょう。広辞苑先生に聞いてみましょう🕵

 

真面目: ①真剣な態度。顔つき。本気

             ②まごころがこもっていること。誠実なこと。

 

 

ほほう。

つまり、私は真剣そうな顔つきを常にしているように見られているのか🕵

 

 

 

 

 

 

でもここで、ふと今までの私のことを振り返ってみると、

私は、正直、本気で何かに打ち込んだ経験なんて、無いことに、気づかされるのです。私は自分の人生に対して、真剣に自分の力で創りあげて行くとか本気で全力を尽くしたことなんて、一度も無い。

寧ろ、ことが上手くいきそうになったり、誰かから良い評価をもらったりすればするほど、なにかしら言い訳つけて辞めてきた。恩知らず。

 

最近、意識高い系(笑)とか、真面目系クズ、っていう言葉が大学生の間で飛び交っている。実際、そういう人は明らかに一定数存在していて、ちょっと片腹痛かったり、なんとなく馬鹿にされて当然かなって思う言動や行動をしていたりする🌚

わたしは何かの団体に所属して精力的な活動をしているわけじゃないけど、同じようなもんなんだろうなって、ちょっぴり感じる。

 

要するに、ほんとのほんとのほんとは、自分自身に自信なんて無いから、

団体や活動っていうシェルターで自分を覆い隠しているだけなのに

自分そのもののアイデンティティ全てが褒められ認められたような気になる。

でも

ふとした瞬間、そのシェルターを無造作にぶっ壊してくる敵や空砲に出くわして、

びりびりばらばらぐちゃぐちゃにされて焼け野原となった自分はもうこの世界から退散せざるえなくって。

その焼け野原から、一人の力で偏った復興を果たしてしまうと、また同じ過ちを繰り返すだけだったりするんだけど。案外このことに気づかずに風船みたいな自信を胸に生きている人って多かったりする。

 

 

べつに何か特定の人や団体のことを、この場で批判するつもりもないけれど、

やっぱり、私は、真面目って言葉は好きじゃない。

 

 

不真面目だろうと不純な動機だろうとほんとはやる気なんてこれっぽっちだって無かろうと、やっぱり世の中結果や実績さえあれば生き残れるし、上り詰めることができる🌞

どんなに立派な理由があろうと綺麗な動機であろうと、客観的に判断できる強みが無ければ、やる気なんてその時の気まぐれだとしか思えないし、あまり信頼できない。

 

 

社会主義がどんどん破綻していく近現代の歴史を見れば自明なことだけど、

世の中全ての人間が平等である必要なんて無い。

スズメの涙にも満たないようなうちの父親の努力で、ハチャメチャに苦労して結果も収めてきた母親と同じ収入源だとしたら、逆におかしな話だろうって思う。

 

 

でも、

真面目だからって、頑張っているからって、それだけの理由で良い評価が得られる仕組みも、やっぱり破綻してしまうんだと思う。フィーリングや理想的な感情移入は、本当は誰の利益にも繋がらないし、いつしか一番大切な何かを蝕んでいく。愛が大きければ大きいほど、憎しみや苦しみも同様に比例していくことは、きっと神話の世界からずっと共通している👰👰👰

 

 

だから、

やっぱり、

見た目や外見だけで真面目そう👷👷🏻👷🏽👷🏿なだけじゃ、どうにもならないんだ。

やる気なのか気まぐれなのかわからないまま、その人を評価するのは危険なんだ

 

 

 

あと1ヶ月もすれば、ハタチブランドを手放さなきゃならない時期が来る。

なにか、大きな、強みを作らなきゃ、な。

焼け野原からの本当の意味での復興は、きっと、一人で机で頬杖ついたり、ベッドでぐるんぐるん寝返りを打ってるだけじゃ、だめだ。

 

 

写真の位置の指定の仕方がわかりませぬ。

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部屋も片付き、気持ちも落ち着き、課題もとりあえずリズムを取り戻し、バイトはつらぽよそうだけどまぁ今は考えないようにして、って感じでとりあえず元気になった詩織です👏🏻😎   ヨカッタヨカッタ。



実は今日、

大学で知り合った友人を初めてアパートに呼びました。

大好きな台湾茶をご馳走して、るんるんです。るんるん。るんるん。











ところでみなさん、

グリーンカレーって知ってますか?(唐突)



あれ、

この前、本格タイ料理屋さんで初めて食べて、もーーーめっちゃ美味しくて大好きになったカレーなんですけどね。やっぱもう一度食べたい、でもあのタイ料理屋に一人で入れるほどお財布の中身は甘くない(グリーンカレーも甘くない)ってことで、無印良品で購入したわけです。



うーーーーーん。

うーーーーーん。

うーーーーーーーーーーーん。


タイ料理屋の前に食べたかった味だなぁという当たり前の食レポ。うん。



こーゆーこと、前にもあったんですよね。

昨年末、私が元彼のアパートで一人やさぐれていた時、親友が遊びに来てくれました。


彼女は秋田の大学に進んだということで、秋田の有名な日本酒(春霞)を持ってきてくれたんですよ。私、日本酒初めてで、それを飲んでめっちゃ美味しい!!!!って感動して。こんな日本酒って美味しいの??みたいな感動を果たしてからしばらく日が経ったある日、居酒屋さんとかのふつーの冷燗飲むと、、、


うーーーーーん。


みたいなね。

(ちなみに岩手の南部美人も美味しいよ!秋田の方が好きだけど!笑)






こういうのってよくあると思いません?


最初のうちに本格派のものを知ってしまうって、そりゃ素晴らしいし良いことなんですけど、そのあとのいろんな味や価値を楽しめなくなるみたいな。本格派の前にその味を知っていたら、どちらも楽しめたはずなのに。




なにが言いたいかよくわからんな。

とりあえず

私は上流階級生まれのブルジョア育ちの人間じゃなくて良かったです。これからいろんなことを自分の力で楽しめそうな気がするから。それだけ。



ちなみにウイスキー大好きです。ビールを毎日買うサラリーマンとさしてコスパは変わらないと思うから、ゆるしてください。笑




詩織、バイト決まったってよ。

 

 

 

土曜に電話して、日曜に面接して、水曜に決まりました。

超高級老人ホームのレストランのウエイトレスとして、五月の下旬あたりから働きます。自立されている方々なようなので、食介とかはなさそうだけど、時給に見合う努力をします。頑張ります。

 

でもテストもレポートも課題もプレゼン原稿も終わりません。読まねばならない文献が積み重なっていく恐怖。誰だ、文系大学生はヒマだとほざく人間は。そこの君か。じゃあ後はよろしく頼んだよ。おやすみ。

 

 

 

ああ

人間、不幸でいるうちは幸せだよなあ。ほんと。

 

 

書きたいことあるけどまとまらない。

最近、いつもにまして不眠症でございます。頑張るよ。

 

 

 

 

未来の自分のための備忘録


駅前で、某大学生たちが、大きな声で熊本地震被災者のために、募金活動をしてた。
みんな、きらきらしていた。凄いなあって、素直に思う。
私は、学校の看板を背負ってまで、そういう活動をする勇気が無い。怖いから。

その活動が終わって、その活動のメンバーたちが階段を降りていた時、ちょうど私も同じ帰り道だった。
ふと横を見ると、大きな荷物を抱えた、ホームレスのようなおばあさんが、エイヤホイサと一段ずつ降りていた。
一人の大学生がそのおばあさんに気がついた時、彼女はあからさまにそのおばあさんを避けて、不愉快そうな表情をした。


私は何か違和感を覚えた。
でも、だからと言って、私がそのおばあさんを助けられるわけでも、救えるわけでもなかった。
そもそも、おばあさんは大学生にも私にも、もしかしたら社会全体にさえ、救いなんて求めていないのかもしれない。だいたい、その大学生を糾弾する権利なんて、私には何にも無いのだ。私は、表立った社会活動なんて、何もしていない。


前の記事でも少し触れたけれど、私は学生主体のボランティアサークルなどの活動を批判するつもりはない。むしろ、きっと大事なことなんだと思う。協調性とか、団結力とか、責任感とか、コミュ力とか、私が身につけなければならないものの宝庫だ。だいたい、私はただでさえ就職不利な履歴書抱えているのだから、そういうところで活躍するべきなのかもしれない。

でも、
何か、引っかかってしまうんだ。
何かが私を止めるんだ。

 

話は少し変わるけど

『保育園落ちた、日本死ね』っていう匿名ブログを発端に、保育士の給料が少し上がるところまで行き着いた。
羨ましいな、って思う。
そんな過激な匿名の発言が、多くの人に共感され、共鳴して、署名活動や国会の議論にまで発展して、総理がそういう決断をするに至ったのは、他でもない、そのブロガー以外にも待機児童問題に苦しむ母親が多い、つまり大多数の人間が抱える問題だからだろう。
それだけたくさんの人たちが苦しんでいるのは事実。私は母親になったことが無いから、なかなか共感しきれないけど、きっと大変なんだろうな。

でも、
それは、
きっと、
待機『児童』だから。

 


私の過去話なんて、つまらないし誰も興味なんてないだろうからあまりしたくないけど、
もし、私が、あの時、

 

障害者施設落ちた、日本死ね
ってこのブログに書いていたら、障害者施設で働く支援員の方々の給料は、上がったのだろうか。


特養落ちた、日本死ね
ってこのブログに書いていたら、介護職員や家族の負担は、少しは軽減されるのだろうか。

 

世の中は多数決だっていうけど、
もっと、もっと、何か深い根も、ここには潜んでいる気がするんだ。

 

 

 

この2つの話には、ひとつ共通点がある。

ただ単に、人間の心理的な問題だ。
なんとなく近寄りがたい人、つまり、自分や自分の周りとつながりが感じられない人に対してなら、人はどこまでも無情になれるし、無関心でもゆるされる。

そんなのは仕方がないことで、毎日流れる悲しいニュース一つ一つに、誰も彼もが共感して涙を流していたら、世界は回らない。みんなうつになってしまう。
でも、
仕方がないって、しょうがないって、どうでもいいって、受け流すこともあれば、
その通りだって、団結しようって、社会を変えようって、大きな組織となることもある、
この境目や価値観の差について、誰も教えてくれない。目を向けようとしない。

 


私は今、上の階に住む人の顔を知らない。性別さえ知らない。
隣の部屋の人が、学生なのか、社会人なのかも知らない。もしかしたら同じ大学に通っているのかもしれない。その人がどんな気持ちで朝を迎えているのか、どんなキャラクターの持主なのか、私は知らない。何ひとつ、知らない。

 

 

 

私は、まだ、この世のことを、何も知らないんだと、気づかされる。

机上の空論にならないように、私は私の出来る範囲のことを全うします。はい。