え ん

人生は連鎖する、

宗教臭いし説教ババアみたいだからそのうち消すかも。

今日は少し重くてちゃらんぽらんな話をします。一昨日のブログは軽くてずっしりとした昼休みのあとの数学みたいな話だったのでね。


家族のことです。

ここで先立って申し上げておきたいことが、もし、今偶然このブログを見つけてしまった方の中で、超がつくほど自分のふぁみりーが大好き❤️だというの人がいるなら、ここから先は高速でスクロールして星だけをつけて戻るボタンを押すことをお勧めします。あくまで私のブログなので、私の独断的な考えでしかお話しできませんからね。ごめんなさーい🐥🐥



と、言っても私の家族の話はあんまり詳しくはしたくない(文字数が足りない😱)ので、できる限り一般論に帰着させつつ自分の話をしたいと思います(👼おい、お前みたいなニンゲンに出来ると思ってんのか👰)





家族。

私にとって、正直永遠のテーマみたいなもんだと勝手に悟りを開いています👁


正直に言うと、私は私の家族を本当の意味で好きになることは、たぶんずーっと先な気がしています。好き嫌い、というより、もっと言えばゆるすかゆるさざるかみたいな論題なのです👤


このブログを読んでくださる人の中にも、もしかしたら家族とうまく行かずに今までズルリズルリと着物を引き摺って歩いているような人がいると思います。そして誰かに踏まれてズテッて転ぶパターンね👘

 



私は実は、ちょいと最近まで、数カ月間20年間閉じ込められていた自宅を離れて暮らす機会があったのですが、今思えば本当にそれが今の私に生まれ変わる🌞、最大の転機であったように思います。その間、家庭とは無関係な問題と壮絶な戦いを繰り広げていたのですが、今回はそこは割愛します。


それで、今、とりあえず4月からの居場所が見つかった私は、その準備などのために2週間程度自宅に戻っています。数カ月の間にも何回か帰っては来ていたのですが、ここに来て私はものすごいことに気がついたのです‼️


何かというと、







コンナトコロニニジュウネンモイタラビョーキニナルニキマットルヤン、イママデシオリホントニホントニヨクガンバッタヨ、カコノシオリイキテテクレテアリガトウ


ということです。


一度自宅から離れて気づいた自分の家庭の非凡さ、異常さを目の当たりにし、心臓が射抜かれて脳天に花火大会のような感覚です🎉🎊


ずっとそれが当たり前だと思っていて疑いもしなかったこと、または異常であると気付きながらもどうしようもなかったこと、そしてその異常さに甘えていた、他でもない自分自身‥


ああ、

これが私の家族なのだな、と。

そして、この屋根の下で、私というアイデンティティ全てが、形作られていったのだな、と。





世界中の、今でも家族という熟語に何年も囚われ続けている皆さん👷

帰る場所がそこしかないのに、そこに居場所も逃げ場所も無く 、ただただその収容所のしもべとして生きるしか道を見つけられない皆さん⚠️

不幸で居続けたいが為に今でも家族に囚われるという道を自身で選んでいるのです、なんてお偉いアドラーさんがのたもうておりますが、そんなもん知らん、とにかく辛いんだよいいから助けろよ!ってなっている皆さん⚡️

ほわいじゃぱにーずぴーぽー!なんで自分の人生生きないの?絶対いつか後悔するよ!それでもいいの?!なんて言われても、なにすることも許されない環境でどうすりゃいいのさ‼︎とキレたいけどキレる勇気も体力もない皆さん👏🏻



※私はアドラーも厚切りジェイソンも好きです。※





皆さんに伝えたい。


皆さんは普通ですよ。

皆さんは当たり前の感情を持っているんです。

皆さんは本当に一般的な人間です。




汚い水の中に放り込まれたら誰だって汚くなるんですよ!🐢🐠🐟🐡🐬🐳

それが私であれあなたであれ厚切りジェイソンであれ卑弥呼であれナポレオンであれ。たまたまあなただっただけなのです。なんであなただったのかは私は知りません。そんなこと、答えを知ったところであなたは変われません。


とにかくあなた自身はあくまでも普通なのです。何か決定的な欠陥があるとか、こんなことを思うなんて自分は異常者なのではないかとか、なんでみんなみたいに生きられないんだろう、なんでこんなに自分はダメなやつなんだろう、なんて思う必要ありません。というか、そういう風に思ってしまうその思考回路さえも普通です。あなたじゃなくても、その環境に居たら普通にその感情を持つんですからね。よっっっぽどの強靭な精神を持つ人じゃない限り、最初から家庭は家庭!自分は自分!と割り切れたりすることはありえないんです。その強靭、という字はもしかしたら狂人とも言い換えられるほどの人間かもしれません。少なくともここまで読み進めているあなたでないことは確かでしょう。


普通。

私はこの言葉が大嫌いで、なにが普通だ!誰から見た誰が普通じゃ!ふざけんなや!と長年思ってましたが、あえて多用しました。ね、みんなノーマル。ね?ね?




ーーーーーー


ただし!!!


これからその収容所から脱出し、神奈川県民として生きる道を選べた私が言います。




そんなカスでクズでどうしようもない家族の下で苦しみ続けるという名の、そんな家族を盾にしてもっと広くてもっと冷たくてもっと大事なことで溢れる社会から逃れ続ける人生を選ぶか


失敗も後悔も諦めも嘲笑も中傷も受けながら、もう誰のせいにすることも出来ない、だけど自分の人生を生きよう、生きたい、という気持ちだけは持ち続ける人生を選ぶか


それだけは、あなた自身なんじゃないかな。今は何にも考えられなくても、家族を言い訳にしても、全てから逃げてもいい。私も全てを逃げて逃げて逃げてきました。家からも学校からも仕事からも逃げました。そしたら父親も親友も彼氏も私の前から逃げました。

そうして逃げ場所がなくなった時、あなたもその選択に否応無く迫られる日が必ず来ます。



私は、

たくさんの人たちを犠牲にしましたし

家族以外のいろんな人たちを裏切ったり経済的にも精神的にも、ここには決して書けないようなたくさん迷惑も過ちもたくさん犯したけれど

それでもなお、

自分が楽しいと思える道を選びました。


自分が楽しいと思えるなら、どちらでもいいと思います。でも、あなたが楽しくないなら、きっと周りの人たちも楽しくないと思います。みんな不幸です。つまんないです。わざわざ自分の力で汚い水にダイブする必要はありませんからね🏊🏄




ってことで、荷造りに飽きた私からの愛のメッセージでした。ほんと、宗教臭いな。こういうの私は嫌いなんだけどな。


次は引っ越し先で更新かな〜


備忘録として。

コメントや星⭐︎、本当にありがとうございます。本当に励みになります。ぜひ、たまに覗きに来てやってください。泣いて喜びます○

ーーーーー


この前、前の大学でお世話になった先生とお茶してきました。

その大学の卒業式が終わったあとの打ち上げにも行かず、一年もしないうちに中退したクズ野郎とお茶を飲む先生は、たぶんソートー変人。

その先生とは、中退してから何度か会っていたのですが(辞めた大学の研究室にノコノコと入っていく私は、たぶんソートー変人)、今回は一味も二味も違う再会になりました。


何でかというと

めっちゃめっちゃめっちゃ叱られたんです😰

叱った、というか、

はっきり「このまま行くと、詩織ちゃんほんとにダメになるよ」って諭されちゃいました。

数ヶ月前の私であれば、グチャグチャのお豆腐になってけんちん汁の中に放り込まれるだけだっただろうから、しっかりと受け止められた私はやっぱり成長したと思う笑

何を言われたかというと、

「過去なんて退屈なもの背負ってないで、いちいち反省もしなくていいからさっさと新しいこと始めなさい❗️」

「私なんて私なんてって言って、結局詩織ちゃんはあなたと同じレベルの人間のことを軽蔑してるだけよ」

「悲しい悔しい辛い嫌な思い出や人間の間に、あなたを支えてくれていた人がどれだけいると思ってんの?あなたはいろいろな人に裏切られた代わりに、もっとたくさんの人たちを傷つけてきたのよ。私だって期待していた詩織ちゃんが突然辞めて悲しかった」

というような内容を2時間以上。



もう、正直泣きそうでした😣

でもね、ほんとーにほんとーにほんとーに、めちゃめちゃビビビビっときました。感電死しなくてよかったよかった😵⚡️


この言われたことについて、私なりに深く掘り下げていきました。

しょーじき、私も過去なんて棄てて軽やかな大学生活送ろう♪♪♪なんて希望を膨らませていました。らんらんらん⭐️⭐️

でも、今回先生と話して、よくわかりました。

私はまだ、過去を消化出来ていないんだって。

このblogには詳しく私のこれまでの20年間を語る気は無いのですが(十分すぎるくらい既に語っているなんて怒らないで🙈🙉🙊)、書こうと思えばへらへら笑い話みたいにカキカキできる自信がありました。まあたぶん、誰も読み切ることなんて出来ないくらい壮大な文字数になるだけでなく、何より、本当は人間なんてものは他人の過去や状況なんてどーーでもよいんですからね。そこにドラマチックなハッピーエンドやドラスティックなサクセスストーリーが盛り込まれていない限り、そんなものはタイクツなんですね。


話がズレた‥‥。

とにかく、私は過去に対して全て受け容れていたつもりなだけで、実は未だに燻っている「何か」があるんだなーと。

それと、私は学歴にしろ職種にしろ性格にしろ、何かしらにおいて個人や特定の団体にしか通用しないランク付けなるものを差別する人のことを差別していた自分にようやく気がつきました。また、私は自分に自信がない理由を「体育の評定が2だった」だの「ピアノもトランペットもギターも出来ない」だの「字が汚い、絵が描けない」だの「頭の回転が遅くて勉強全然出来ない」だの「月曜から金曜まで学校も行けない」だのと羅列してきたけれど、じゃあそれに当てはまる私以外の人間はどうなんだ、と。私は無意識的に、デキる人やスゴい人たちのことを絶対的に尊敬するあまりに、自分と同じような人や同じ部分を持つ人間のことを下に見ていたのだと思います。自分の中で理想の自分というものがあまりにも高すぎるんです。頭がキレて勉強家で、沢山の本を読みあさっていて、英語がペラペラで、姿勢がピッてしてて、決してチャラチャラしていなくて、下手にはしゃがないし焦らないで、カッコいい女性!みたいな。もうキリがない笑

だから、そうじゃない自分、そうじゃない他人というものをとにかく下に下に見て、ああクズだな、カスだな、ダメだな、って。


そういうことをしてきた結果、私は沢山の人達と意図的に縁を切りました。

こんな自分カスなんだから、きっとこの人は私のことが嫌いなんだ、だからこの人が私の前からいなくなる前に私が先にいなくなろう、さよーならー!!!さらばー地球ー🌎って。かたはらいたし。


そんな私みたいなキャラクターが2番目に恐れるSNS、LINEというアプリを、ついにこの前再インストール、ログインしました。ちなみに一番怖いSNSFacebookです。未だ手をつけることができません。

そうしたら、私の電話番号を知る社会人時代の上司から応援メッセージは来るわ来るわ。そしてたかだか1ヶ月半にも満たない初任者研修でお世話になった講師からもメールは届くし、果ては高校時代の校長先生からも、中学時代の恩師からも。


アンビリーバボーです。

私が勝手にどうせどうせと落ち込んだりして壁を作っていただけで、こんなにも私はみんなから愛されて、こんなにもみんなは私のことを応援してくれていたんだと思うと、嬉しいやら悲しいやら情けないやら、、、


この今の私のぐちゃぐちゃな涙涙のきもちを、2年後の私の笑顔で整理して、みんなに恩返ししていこうと思います。


なんか脈絡のないつまらない道徳の授業みたいなブログでごめんなさい。次に書くブログはもう少し面白くしたいな。

報告。

合格発表の日、

落ちていたら恥ずかしいからって、無料バスがあるのに、ホテルから歩いて大学へ向かったんですよ。(ネットで公表していない😅)

そしたら見事に迷ってですね。散々な目に遭って、1時間半くらいの往復の道のり、死にそうだった。

ミスドでちょっと息抜きしてから、アパートを決めて来ちゃいました。4つの物件を回って、✨家賃3万✨のアパートにしました。どうも、春から女子大生です←

そのあと、すぐに電車で2つ乗り換えして、横浜駅に着きました。何なんですかヨコハマ。追いかけてヨコハマわけわかめですよ。迷いに迷ってスタバでこのblogを更新しました。あ、私のタブレットWi-Fiがある場所にしか繋がらないので、そこらへんの道端で更新できないんですよ。てか、何なんですかヨコハマ。

そのあとみなとみらい線で旅立ち、留学生と日本人学生とのパーティーに参加してきました。いやあまぁおもしろかったー!!!いろんな意味で。うん。ほんと。うん。(後でくわしく)

で、また横浜駅に戻って、もーハンパないくらい走って、走って、体育の評定が2だった私ってこんなに走れんのか?!ってうるうる感動するくらい走って、見た目怖い系のお兄さんに声をかけて道を教えてもらって(タバコポイ捨てしてたけど、めっちゃ優しかった……)、夜行バスで朝の6時に帰還してきました。

 

 

 

どうも、春から女子大生です。

短大なのですが、編入を4月から考えている人が半分を占めているそうです。まあそんな感じのとこです。

 

応援してくださった方々、ありがとうございました!!

応援、支援してくれるみんな、よろしくお願いします!

 

 

 

 

 

 

少々遅れましたが、

3.11については

私は被災県で震災を経験したのは確かですが、

正直何かを誰かに伝える言葉はありません。

そして、「ご冥福を~」という言葉を多用するのも、なんだか私は好きになれません。

特に明確な、はっきり言葉に出来る理由もありませんが

震災について内陸民である私が語る権利は無いのです。

 

 

 

 

 

 

ただ、

5年って、かなり大きな節目ですよね。

 

 

15歳の頃、人生の中で一番不幸なのはきっと今だー!これからはきっとうまくいく……!!って信じて疑いませんでしたが、気がつくとその気持ちを毎年更新していました。

 

 

 

5年。

私にとって、かなり密度の濃い日々だったように思います。

5年前は、まさか自分が髪の毛を染めたりパーマかけたりするキャラなんて思ってもいなかったし、1年前は新宿駅を一人で歩いたり、横浜でのパーティーに参加したりするようなアクティブな人間とは太陽と海王星ぐらい程遠いネクラやろうでしたし。

 

ちなみに、今もお豆腐のなかにガラスの破片が多量に混入されて販売停止になって倒産したメンタルの持ち主です。変わっとらんな。

 

 

 

ふしぎなものですね。

5年後、私はどうなっているんでしょう。

セシルローズのように世界をまたにかけて飛び回っているかもしれないし、研究室の本や学術雑誌に埋もれているかもしれないし、2児のママさん専業主婦になってるかもしれないし、脳内に何かしら革命が起きて理系の勉強を始めているかもしれないし、やっぱりまわりまわってニートかもしれない。

 

本当に、未来って、わからないから面白い。

 

でも、少なくとも、他人が何と言おうと、自分が楽しいと思えることに貪欲に生きていきたいですね。

 

 

また更新します。

 

私と優しさとメディアと

f:id:mercy0707:20160310194117j:plain

スナフキンと結婚したひ……❤

 

受験が終わりました💧

いろいろツッコミたい問題が出ましたが、過去問を赤本として公表していないところなので黙りますね。Be quiet!!

そして、明日合格発表なので、明日も更新しますよ笑

というより、明日更新する予定だったのですが、とにかく書きたいことがめちゃくちゃあるんですよ。語りたいんですよ。喋りたいんですよ。ってことで長文する👻

 

 

ひとつめ。

『優しさ』についての考察をしてみました。(突然)

 

私ね、実は、優しい、という言葉があまり好きじゃなくてですね。

これはほんとーに好みの問題。別に私が好きだの嫌いだの言ったところで、優しい人のそれまでの人生やら人格やらを語り出そうとか変革とか洗脳をさせてやろうとか、そういう気はゼロです。というか、その人自身のことなんてどうでもいいんです。ただ、私が優しいっていうのが好きじゃないってだけ。

 

どうしてかというと、理由は大きくわけて二つあります。

一つ目が、私自身がよく人に「優しい」と言われるからです。

なんだこいつw って思うかもですが、私こそなんだそれw って感じですよ。そもそも優しさって何なんだ?と聞きたくなってしまいます💨

 

高校時代のことです。私の自宅の最寄り駅の待合室で、20時過ぎにおじいさんが座っていたんですよ。ウイスキーを両手に抱えながら一人で歌を歌っていました。

その人は、まぁ、『普通』じゃなかった。誰も近寄らなかった。おそらく精神障害を抱えている方だったんでしょうね。

私はその待合室にちょうど入った時、そのおじいさんが私に話し掛けてきました。「よぉ嬢ちゃん」って。

まぁそのあと二人で家族の話だとかそのおじいさんの悩みだとか病院の話だとかをしていたんですが、結構面白かったなーって思います。

あと、昨日電車に乗っていたら、突然外国人の男性が私に微笑んできたんですよ。結構混んでいたんですが、明らかに私に向かって微笑んできて。微笑み返したら、隣に座ってきて、すこしだけお話しました。パレスチナ人だったみたいです。

 

他にもいろんな例がありますが、私はいろんな人に話し掛けられるし、いろんな人と楽しくお話します。そのことを、「優しいんだね~」ってたまに言われるんですが、私はそこにちょっと異義申立てしたい。

だって、皆がそう私に言うのは、明らかに壁があるでしょう?

障害を持っている人「なのに」おしゃべりできるんだ。

外国人「なのに」仲良くなれるんだ。(この壁は都市にはあまり無いのかな?と思いました。私の住む地域はやっぱりガイジン意識が根強い)

そういう「なのに」っていう壁というか段差というか距離というか、それって矛盾していると思いませんか。

だって、本来、「バリアフリー」が優しさなはず。

どうして皆、自分と違うものに対してこんなに排他的なのだろう?と。どうして皆、もっともっとフラットに他人のことを見られないのだろう、と。

○○「なのに」~と言い出したかと思いきや、○○「のくせに」とか、○○「だから」とか、本当に人間って自分に都合よく生きているな~なんて。だからこんなことぐらいで、私は「優しい」なんて言われたくないですね。むしろ、当たり前だという考えがもっともっと広まってほしいな、と。

 

もう一つの理由が、自称優しい人ってね、本当の意味でやばい人のことを知らない人だと思うんですよ。ここで言う「自称」は、決して侮蔑的な意味は含んでいません。あくまでも、優しいって自他ともに認めている人のこと。

いや、そういう人って本当に優しいんですよ。ほんとにね、優しい人って優しいんです。めちゃくちゃ尽くしてくれるし。すげーなーって思います。リスペクト👼👼👼

でもね、その優しさに付け込むようなやばい人って、ほんと、その人の定義する優しさだけじゃどうにもならないような負のエネルギーがあるんです。なにもかもを飲み込むブラックホールそのもの👿👿👿

ほんと、その人に一度捕まっちゃったら、人生めちゃくちゃになるレベル。いつでもどこでもいつまでもどこまでもその人のことを考えなきゃならないし、いつでもどこでもいつまでもどこまでもその人は優しい自分を追いかけてきます。

「いつまでもどこまでも」というのがポイントです。

たとえ電話線をぶっちぎるなりアラスカに移住するなり整形手術するなりして、その人との関係を断つことに成功しても、自分は優しい人間である限り、絶対に自分のことを許せないですよ。何ヶ月後かに、もしかしたらその人のことを自分は救えたのかも知れないのに、とか、捨ててしまったんだ、とか、優しいはずの自分が裏切り者になってしまった、とか、そういう鎖まではなかなか断ち切れない。ぶっちゃけ、そっちの方がハードライフ💣

 

 

多分ね、

自称優しい人って、自分に自信が無いんだろうなって思います。

特に取り柄も無いから、人に尽くしてあげることでしか自分の存在価値を見出だせない。誰かに優しくしていないと自分が見失ってしまう。優しさは自分に対する恐怖と闘う唯一の武器だったり🔫🔨🔧

 

ええ、まぁここまで読んでくれた優しい人はわかっているかと思いますが、私は誰もかもに何もかもの優しさを振り撒いて歩いたことも、そしてやばい人として優しい人の心を一時的に殺したことも、そしてまた別に優しい人に完璧な「裏切り」に遭った(敢えて裏切りという言葉をここは使わせてください)こともありました。つまり、絶対的絶望的に自分自身に自信がなかったのです。

 

 

それでね、

私、声を大にして言いたいんですけど、ほんと、優しさって時にただの道具ですよ。そして、使い方を間違えれば、罪人になり得ます🆘

 

優しいって

なにをもって優しさと説くかなんて、誰にもわからないじゃないですか。高瀬舟の話はちょっと視点が異なるかも知れないけど、自殺志願者の人にとっては殺してあげることが、一緒に死んであげることが、最大の優しさかもしれないじゃないですか。でも、それって倫理学的に(法的に)優しさとは呼ばないじゃないですか。そんなの答えなんて無いじゃないですか。誰にとっての優しさが本当の意味での優しさかなんて、多分人間の理解を超越したものなんですよ。(ソコカラサキハカミノリョウイキ)

 

だから、正直、優しい人には、他人に尽くすそのエネルギーの視点を、自分に向けてほしいなって思います。少なくとも、○○のために、じゃなくて、自分のために、の視点で同じ行動をしていた方が、きっとその先もお互い平和です。

 

 

 

誰もかもに優しくなんてしてらんないよ、僕には時間が無いんだ。by スナフキン

 

 

 

 

さて、もう一つ。

最近のニュースというか、メディアについてです。

私はここしばらくNEETのくずやろうなので、偉そうなことなんて何一つ言えないんですけど、やっぱりメディアの力は恐ろし過ぎると思うのです。

エンタメ系の話になるんですが、ゲスの極み乙女の川谷さんとタレントのベッキーの不倫騒動にちょっとフォーカスを当ててみましょう。

まあ彼らを他人事のように思えない私の状況なんてものはどうでもいいのですが、あそこまで騒ぎ立てられるって、どうなんでしょう? 勿論、ミオヤマザキの歌にもあるとおり、不倫は犯罪です←笑 川谷さんの奥さんはとても傷ついたことでしょう。

でも、川谷さんの問題の後、衆議院議員だとかナントカだとか、いろんな人達の浮気事情も発覚したでしょう? ぶっちゃけ今この瞬間に、まだ世間に流れていない浮気だ不倫だなんやかんやってめちゃくちゃあるんだと思いますよ。だって、紅白歌合戦の時、川谷さんがその一週間後こんな状況になるだなんて誰が想像したでしょう?ベッキーがこのような形で芸能界引退するなんて考えてましたか?

 

いや、浮気に限ったことじゃないです。薬物も犯罪も事故も事件も、物事が起こってから、みーんなその物事が起こる前のその人の人生すべてを否定し始めるし、炎上するわけです。みんな、まだ気付かれていないだけで、センテンススプリングに追いかけられていない(追いかけたツワモノもいますけど)だけで、世の中にはもっともっとはちゃめちゃなことが起きているのだと思います🌏

 

そして、そういう大衆が食いつきやすいニュースが一つでもあると、メディアはそこに全力を尽くします。視聴率欲しいしね。でも、それによって埋もれてしまった重大な事件も必ずあるはずなんです。本来、地球市民としてもっと関心を注ぐべき物事があるはずなんです。埋もれているだけで。そういう意味で、最近のメディアの威力というか、腐敗というか、ちょっぴり危惧をしています。まぁ今の私みたいな何も無い人間が危惧したところで変わらないんですけどね。大きな人になりたいです。

 

 

近いニュースで、19歳の予備校生が同じ予備校生に殺されてしまった悲しい事件がありましたね。

彼女が大阪大学に合格していた、ということも取り上げられました。あれに対して、どう思いますか?

なんだか、TwitterYahoo!の反応を見ると、

「大阪」大学というのがかなり強調されている印象を私は受けたのです。気のせいだったら申し訳ないのですが。

でも、実際は阪大だろうとハーバードだろうと無名大学だろうと、また仮に不合格であったとしても、彼女の命も事件の惨さも、何一つ変わらないと思うのです。阪大進学=明るい将来、という方程式によって、この事件の重さは変わるのですか?

このことは、2月のバス事故にも言えますね。同じニートだから擁護したくなるというわけではありませんが、早稲田の美人インテリが亡くなり、ニートが生き残ったことを騒ぎ立てた人がいますが、私は理解に苦しみます。そして、運転手と大学生の比較の仕方が露骨で、かなりの闇を感じました。何が闇かというと、そういう露骨な表現をするメディア社会に躍らされる私たち大衆市民が、とても恐ろしいと感じるのです。

 

 

 

 

まだまだ、いろいろと書きたいことがあるのですが、今回の試験も落ちていたら、本当にくずな人間の駄弁でしかないので、ここらへんで我慢して勉強してきます。それではまた明日。