え ん

人生は連鎖する、

それでも、私は優生思想の対局に居たい

 

 

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某メンタリストのYouTubeにおける生配信と、それに対する炎上について、最初のうちは敢えて見ないようにしていた。けれど、見ないようにしようと思えば思うほど、ニュースや彼に対するさまざまな立場の人のさまざまな見解が目について仕方なくなる。なんというか、こういったわかりやすいヘイトに対しては、誰もが知ったような顔で語ることができるのだ。たとえば、昨今のタリバン政権の行先を歴史的背景を元にしながら論じよ、とか、iPS細胞の課題と将来展望を医学専門用語を用いて述べよ、みたいな話だったら、黙る、というか黙らざるを得なくなっちゃうような一般人も、こういった倫理的な話になると饒舌になる。きっと、こういった問題って、誰もにとって他人事とは思えない何かがあるんだろう。自分が過去に経験した何らかの出来事に、「優生思想」の目がどこかで光っていた。それくらい、誰もにとって身近なところに、ありとあらゆる場所に、この思想は眠っている。みんながみんなの批評家になれる思想っていうのは、基本的に、怖い。

 

その批評の中の一つ、「沈黙は同意と同じ」という言葉を見た時、まさに自分に突き刺さってきたような気がした。しんどいけれど、痛々しいけれど、でも、なんにしろ、声に出さなければ、と思い直した。きっとそこから出なければ、生まれないものもきっとある。

 

 

ということで、熱りが少々冷めたタイミングで、この文章を打っている。

 

 

優生思想、という言葉自体が、負の思想として社会に浸透していることに、まず私は意外だな、と驚いている。今回のメンタリストのホームレスや生活保護受給者に対する発言も、以前に某有名ボーカルの男性の発言も、「それは優生思想だ!」といった形で炎上した。

 

けれども、優生思想が負のものであるという認識自体は、実を言うとものすごく新しいものであることは、ほんのちょこっとだけでも検索すればすぐにでも出てくる。

そもそもほんの100年前の世界では、むしろ優生思想はある種の理想で、目指すべき社会を指し示す重要で画期的なものだった。ナチスT4作戦の話とか、各国の断種法だとかはその最たる例だろう。

しかも、日本においては、新憲法になってからもこの思想は揺るがなかった。その証拠に、1996年まで日本はまだ優生保護法は法律として機能していたわけで、私の二つ年上の兄はその最中に生まれたわけだ。

 

……と、

そんなことは、別に勉強なんかしなくたって、googlewikiを流し読んでいれば知ったような気になれるのだ。

 

 

 

それが、ここ四半世紀ちょっとで、なぜこんなにも「優生思想」が悪になってしまったのだろう。

 

本当の本当の本当の気持ちを探ってみてほしい。

自分とは違う外見、違う考え、違う行動基準、違う発言をする存在、或いは違うと「思いたい」存在に対し、嫌悪感や忌避感情を持ったことが、本当に「一度たりとも」ないか。

 

私はある。

 

 

けれど、それを大きな声で言ってしまったら、きっと流石にまずいだろう、みたいな社会のブレーキが、きっと現代にはあるのだ。

けれど、みんな運転しているのは同じ。右足を、ブレーキに置くか、アクセルに置くか、それだけの違い。そのブレーキの正体については、まだまだ私も勉強不足だ。というか、卒論のテーマにしようかな。

 

 

だから、アクセル全開の人間に対し、「それは優生思想だ!」と断罪することは、少し違う。あの人にも、あなたにも、私にも、優生思想は眠っている。まず、そこからなんだ。

 

 

 

優生思想は、きっとこれからも、強烈に私たちに問いかけてくる。

 

「お前は本当に必要な人間なのか」

 

 

 

 

では、

だから、アクセルを全開にして、特定の社会階層や障害のある人に対して「お前たちは要らないのだ」と声高に言うことは良いことなのか。

 

その大きな声に対し、人がこんなにまで惹きつけられ、社会現象とまで言えるレベルにまで発展するのには、どこかで賛同する声が響き渡っているからだという現実も直視せざるを得ない。実際、相模原市の施設における障害者殺傷事件の後は模倣犯が多く発生した。今回だって、同じだ。

 

人間の社会は、資本主義にしろ共産主義にしろ、「労働」が基準のものさしとなって生産性を測る。「生きていてもいい」者と「死ぬべき」者との分断は、現代に始まったことではない。その「死ぬべき」者が、近現代の人権思想と社会保障福祉国家の発展に伴って「死ななく」なってからが、もしかしたら「死ぬべき」者の本当の地獄なのかもしれない。

 

 

私たちはいつ何時に「死ぬべき」者になり、それでもなお「死なない」いや、「死ねない」者になるのかわからないまま毎日を生きている。それに無自覚な人間は、アクセルを踏みやすいのかもしれない。

 

 

 

今、私が「優生思想」の対局にいたいと思う理由は二つある。これはあくまでも今の私の考えで、この先また新たな考えに変わる可能性はあるけれど、「記録」として。

 

まず、私は、実用的な必要がなくてもそばに置いておきたいものがたくさんある。

毎日手に触れるわけではなくても本棚にきっちり収まってある本は大好きだし、もう使わないけれど幼稚園の頃から使ってきたハサミは今でも引き出しに入っているし、何か実務的に役に立っているわけではないけれど観葉植物を部屋に置いている。

 

私にとって、兄はそういう存在だ。

そして、そういう存在を想う、私のような人間がいる限り、「死なない」者は「死なない」で良いのだ。

 

 

二つ目は、もっと単純なことだ。

誰が誰にとっての「優勢」な存在で、また「劣勢」であるのかを決める基準なんていうものは、「今」の私たちには誰にもわからないし、決めることができないからだ。

 

例えば私は今、26歳の身で大学生として親の援助で生活している。5月までアルバイトをしていたが、今はあえてバイトをしていない。これに関して、どう考えても私みたいな人間を不要だと思う人は一定数いるはずだ。でも、これがもし、私が大学を卒業後に彼らが定義する労働者として、「生きていてもいい」存在になったら? 今の私が、どんなに今の私を否定する人から見て「死ぬべき」存在であったとしても、この先のことはわからない。単純に「今」だけのその人間の環境や状況や立場だけを切り取って、その人の生死の是非を問うことなど、「今」を生きる人間にはできないのだ。それは、他者だけではなく、自分自身にも、言える。

 

 

誰も、死ななくていいんだよ。