変わってしまった先生へ。
夏休みです。
前期、1日も休むことなく全てに出席、課題提出、テストを終えられたこと、もうそれだけで私にとっては本当に驚くほどの進歩なのですが、gpa3.5以上という奨学金継続の条件に戦々恐々としています。想像していたよりはるかにこりゃあ厳しいぞ…()
ここ最近で感じていたことをここに書きます。
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なぜ、「彼女」は変わらないでいると信じ続けられたのだろう。
6年という歳月で、私は本当に変わったと思う。たくさんの大人に出会って、たくさんの駅を降りて、たくさんの本を読んで、化粧も車の運転も恋も知った。
私はこんなに変わったのに、なぜ、「彼女」はあのまま、私が知る「彼女」のまんまなのだと、疑いもしなかったのだろう。
いや、どこかで信じて「いたかった」気持ちを、私は認める。きっとあのまま、現実を直視し続ける理想主義者として、不器用で頑固な私のことを再び迎え入れてくれる、そう、信じたかった。
政治思想という専門の学問から言って、彼女は「考える」「考えをアップデートし続ける」ことが仕事だ。そもそも人間なのだから、ずっと同じ思想を持つ続けるなんてことはあるものか。むしろそれは後退を意味する。
でも、それでも、例えば「突然やってきた人生に絶望している18歳に、フェアトレードのコーヒーをご馳走する」だとか、「さっさと中退したわけのわからん奴にLINEのアカウントを教える」だとか、「そんな奴に本気で怒って、本気で応援してくれる」そういう人間らしさすらも、彼女が背負っていた、何か重い荷物とともに、どこかに置いていってしまったのかな、と。
とても寂しいけれど、その寂しさすらも、おこがましいことなのかもしれない。
変わることは、寂しいことだと思った。
私も、私が変わったことを誇りに思っているけれど、あの頃の私を知る誰かにとって、それを「寂しい」と思われることも、あるのかもしれない。あるいは、傷ついた、と思っていたことは、傷つけていたことと同義なのかもしれないとも思う。
そんなことは知ったことじゃない、私は私の人生だ。そう割り切ることはとても簡単だし、何より、それはきっと真実なのだろう。
けれど、それでも、その「寂しさ」も、私は今回知ることができた。この感情を、決して、忘れない、でも、歩みを止めない。
もう「彼女」には会えないけれど、私も私で、このフィールドで、生きていこうと思う。
先生、これは宣戦布告です。
私はあなたとは違った武器をもって、あなたと同じように、亜流の道だと蔑まれても、あなたがあなたにしてきたように、私は私の信じる方法で、あなたが今座っている椅子に座って見せます。