泣いても仕方ない(んだけどさ)
そういえば、最近、泣かなくなった。
(5月の反省もしてないままに、いま、ふと思ったことをつれづれ書いていきます。)
新卒で入った会社では、めちゃめちゃ泣いていた。
仕事が忙しすぎて泣いたし、自分と同期の任される仕事の差に泣いたし、上司のちょっとした感情的な言葉ひとつに泣いたし、そしてまた、そんな私を心配したあったかい先輩からの、毎日のグレープフルーツジュース一本に、泣いていた。
でも、あれから、2年近く経ったいま、最後に泣いたのがいつだったのか、いまいち思い出せない。
特に今週は、さんざんなことが続いているのに、それでも私は、泣いていない。
どっかに置いてきたのは、涙だけじゃないらしい。
なんだか最近、私は、なんだかんだ、よくやっている。
うちの学科から受講する人間が私しかいない他学科の講義を休むことなく受け、会ったこともない同級生らとスピーチ原稿を作り、放っておけば雪だるま式に増えていく課題をこなし、時給換算したら500円にも満たないアルバイトをし、一人暮らしとしての最低限の家事もせっせとしている。
それなりに嫌なことだったりストレスだったり疲れだったりは蓄積されていて、はーーーーあーーーと投げやりな気持ちになることもあるけれど、だからって何も投げやしない。投げたところでそのゴミ屑をもう一度拾って分別して後始末しなければならないのは、いつだって自分だということに、どうやら本当に私は気付いてしまったらしい。
昔、高校時代だったかに、私は家庭内のストレスが原因で、リビングにあるものを投げたり落としたり蹴飛ばしたりして暴れたことが、一回ある。安い香水を頭からかぶり、親の化粧品やら雑貨やらリモコンやらをぐっちゃぐちゃにして泣き喚いたのだ。
そのあと、その散乱したリビングの後片付けをしたのは、母だった。
私は、何も片付けなかった。
そのことを母が当時通っていた病院の精神科医に話すと、医者は母のことを叱った。何があっても本人に片付けさせなさい、と。
今考えると、あの医者もいろいろ私の治療方針に問題があったんじゃないかという疑惑は拭きれないものがあるけれど、そのことだけは、はっきりと言える。彼は間違えてなかった。
当時の私は、すべてに絶望していたし、何もかもをすべて家族のせいにしていた。
実際家族のせいだった部分もたくさんある。
けれど、あのとき、リビングの惨状を片付けるのは、母ではいけなかった。
どんなことが原因で、なにをもって私があそこまで暴れたのか、理由や背景がどんなに私を味方してくれたとしても、後片付けは、あのとき、わたしがしなければならなかった。
泣いても仕方ない。
なんだか、最近、それを、言葉としてだけじゃなく、実践できてしまっているみたいだ。
とはいえ
良いのかなあ。
良いのかなあ。
なんか、大事なこと、忘れてしまっているというか、あとから大きな波が押し寄せてきたときの恐怖がぴりぴりと背中を刺激するというか。
なんか、
泣いても仕方ない。
つまり、
泣いたところでなにも変わらないのも、
泣いて解決する問題なんて世の中にはそう多くないってことも、
泣いたからって誰かが私の責任を背負ってくれるわけじゃないことも、
全部、全部、全部、
わかってはいるんだけど、
それでも、
涙が抑えられなかったあの頃の感覚や
喚けば誰かが気づいてくれるという期待感は
決して甘えだけじゃなくって
もっと深くてもっと大きな人間になるための、
大事なものをぎゅっと掴んでいた気がする。