え ん

人生は連鎖する、

初公判、所感。

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あけましておめでとうございます。
今年はブログの更新を上げることが目標の一つです。どうぞ宜しくお願いします。




さて、
今日は、相模原市知的障害者施設にて起きた、障害者殺傷事件の加害者、植松の初公判でした。

このブログに、何度となく書いてきたことですが、私は短大の卒論を、この事件をテーマにして執筆しました。実際にやまゆり園へ赴いたり、兄が入所する施設の従業員にインタビューしたりしました。



この事件が起きてから執筆しようと心に決めるまでも、執筆中も、そして短大卒後から今に至るまでも、つまり私は、この事件のことをずっとずっと頭のどこかで考えていて、それにもかかわらず、それに関する報道や論文を読むことを避けたがってきました。


この、こんがらがった糸のようなぐちゃぐちゃした感情を、ぐちゃぐちゃのまま、今日、ここに記録しておきます。これは私の私による私のための記録にほかならず、誰かと議論したりする材料にはしたくないことを先に記しておきます。






私は、植松は、ただただ自分の欲望や意思をあのような形で露出させてしまったただの人間なんだな、としか思えないのです。その事件の当初、大麻を服用していたかどうかとか、精神障害を患っていたかどうかとか、そういうのは正直言ってどうでも良いのです。まあ、今日の初公判については、なんじゃお前と蹴飛ばしたくなりましたが。


でも要は、自分のなかに自分の思想を仕舞っておけるかおけないか、それだけの違いで、誰かしらのことを排他的に見ていたり、何かのカテゴリーに属する団体や個人に対して「あいついなきゃ良いのに」と思うのは、意外と誰しもにあると思うのです。それは、国際間の情勢を見ていても、歴史の教科書を読んでいても、いつだって、どこだって、起きていることです。

ここまで書くと、それだけでオイオイお前は植松のことを擁護するのかと右からも左からもビンタが飛んできそうですが、当然私は植松を擁護する気は毛頭ありません。だいたい、ちょこっと障害者施設で働いた経験があるだけでそんな「弱音」を吐くなんて、甘いんだよ、と言いたい。優生思想は、自分のことをちゃんと客観的に見つめられない甘い人間のすること。


でも、それと同時に、植松のことだけを加害者として悪魔呼ばわりする人々や、知的障害を個性と見なす風潮も、私にはフワフワした気持ち悪さを感じるのです。今回書きたいのは、ここです。

この気持ち悪さには、私には遠い昔に感じた記憶が蘇ります。小学校の頃、『光とともに』や『だいすき!』といった、知的障害者を題材にした漫画やドラマが少し流行りました。私の同級生も、ウンウンと頷きながら図書館で本を借りて読んでいたり。


率直に言って、あー、他人事ってほんとうらやましいわあ!!!何も知らないくせにばーか!、と思うのです。笑




私以外の障害を持つ者の兄弟姉妹を、私はもちろんひとより多く見てきました。みんなそれぞれです。完全に妹のことを否定し、居ないものとする者もいました。汚らわしいものを見るかのような目で兄や姉を見つめる妹もいました。逆に、ちょっと心配になるほどに献身的な想いを弟に持ち続け、自身も支援学校の教諭になったひともいます。

けれど、彼らが本当はどんな思いで自分と血が繋がった知的障害者を見てきたのか、私にわかるすべはありません。なぜなら私自身が、私自身のことをわからないから。


たぶん私は、表面的に見れば、とても最重度の知的障害を持つ兄にたいし、理解と思いやりのある妹に見えていたと思います。兄のことに関して作文コンクールや弁論大会で賞状を持って帰らないことはなかったし、兄の学校の行事にもとても進んで参加していたし、何よりも私は兄のことが大好きでした。(いや、大好きです)

でも実際は、買い物やドライブは本当に本当に命懸けで大変だったし、兄を優先することがあたりまえだから我慢することは多かった。ここにそんな辛かったことや嫌だったことを羅列しつくすことなんてできないくらい、大変でした。その大変さや我慢を認識できるようになったのは、つい最近のことで、ずーっとずーっとあたりまえ、あたりまえ、あたりまえ、そしてしかたない。それで済ませてきました。

お兄ちゃんがいなきゃ良かった、そんなこと絶対に口になんか出せないから、その代わりに、私はお兄ちゃんの葬式に出席する夢を定期的に見ることで、現実とのバランスを取っていたのだと思います。(これも最近になってちゃんと認識できたこと)


だから、障害は個性だとか、障害者だって頑張って生きているとか、みんなそれぞれ役割があるとか、そういうものにものすごい胡散臭さを感じるし、気持ち悪いのです。


そして、その辛さや大変さや我慢をすべてすべて呑み込んだそのうえで、私は兄のことが大好きだし、大切な兄なのです。知的障害者としては知りません。知的障害者として以外の兄を、私は知らないから。




まとまりがなくなってきたのでそろそろ終えますが、つまり、新聞記者にしろ、大学教授にしろ、園長や遺族にしろ、他人事な文章にとても苛立ちが募っているということです。あんな形で死んじゃって可哀想?ふざけるな、という気持ちです。遺族121人中25人のアンケート結果が主な意見なんじゃなくて、残りの96人こそが主な意見なのです。大きな声で言語化されているものだけがすべてじゃないのです。そこに隠されたもっとたくさんのけたたましい沈黙を、決して忘れてはいけないのです。