え ん

人生は連鎖する、

戦わない試合には、勝てないのだ。

 

今私が抱えている感情を、嘘偽り誤りなく目を背けずここに文章化できる自信なんて、いつだって私には無い。語彙力とか表現力以前に、私は私から逃げ続けているからだ。私は逃げたい。逃げたくて堪らない。逃げたい逃げたい逃げたい、いつも頭の片隅でその四文字が踊っている。

 
だから、今から書く文章も、結局のところ相も変わらぬ現実逃避になるのかもしれない。そんなこと今はわからない。わからないけど、出来るだけきちんと自分を曝け出したいと思う。
 
 
 
今の私の最大の短所は、自分にものすごく都合の良い考えしか受け入れられないことだ。大なり小なり、それは私に限らず殆どのひとたちがそういう傾向はあるのだと思う(信じたい)。だけど、特にも私の場合、少しでも自分と相容れないと感じた相手や考えを、多少捻じ曲げてでも自分の領域に入り込ませないよう努めている。
 
 
たとえば、この記事は正直、最初書いた当時は結構自信に満ち溢れていたというか、自分のこの考え方こそを大切にしたいと信じて疑っていなかった。しかし、同じような話をオフラインの場ですると、あまり良い反応を受けないことが多い。それこそ、自分の周りだけしか見えてないんじゃないの? なんて言われてしまう。
 
なんというか、ひとを自分より上か下かでしか見られないとある友人のことを排他的に見ている私は、ひとのことを自分の味方か敵かでしか判断、評価できていないことに気づかされてしまったのだ。
 
 
 
あと、私のありとあらゆる言動や行動は、「許されたい」という言葉に置き換え出来る事実にも直面している。
誰に許されたいのか、何を許してほしいのか、具体的なことはその時々によって異なるし、そのひとつひとつら一過性のものであるように感じる。
ただ、
「恥ずかしい」「わからない」「反省している」
だから
「許してほしい」
と常々根底的に思っている自分は、早急に直すべきだ。これは、安直なだけじゃなくて危険だ。なぜならこんなこと、みんなにはきっとモロバレなのだ。片腹痛し。
 
 
とは言うものの、私という生き物が、何か特別に欠落したものがあるとか、私だけが社会のなかでディフェクトであるとか、そういうわけでは決してないことを、ようやく実感していることは私的に大きなことだ。
これは、私に欠落したものがないというよりも、みんなどこかしら欠落しているんだな、ということだ。病名がついているかついていないか、或いは病院に行っているか行っていないかの違いなだけで、どこかひとには隠したい闇が誰しもにあるようだ。深夜にやっているようなドロドロ恋愛ドラマとまでは言わないまでも、みんな結構病んでいる。それを自他ともに認めているか認めていないかの差なだけだし、ぶっちゃけ認めていても認めてなくても、全然構わないし、どうでもいいんだと思う。
 
 
 
 
 
それにしても、岩手に帰省して良かった。
私は決して友人が多いわけではないし、年賀状とかあけおめLINEもほぼほぼ皆無に近いのだけど、本当に心から宝物と呼べる親友、ただいまと言える空間がそこにはある。親友の定義なんて明快に語れるほど世間も知らないけれど、とにかく岩手には私を待ってくれるひとがいるのだ。私と共に歩いてくれるひとがいるのだ。それだけで私は良い。それだけで私はここ神奈川で生きていける。
 
 
 
とあるひとに、「勝ち癖をつけろ」と言われた。
 
 ✔️きみ、本当は二本の足で歩いて行けるくせに、ヒョンしたことで杖を使って歩いてみたらそっちがやめられなくなって、今もそうやって杖ついて歩いてるけど、そのツケって必ずどこかで回って来るんだからね?  
✔️きみ、自分の力を試したことでの苦労したことないでしょ? いい加減楽するのやめたほういいよ。
 
正直に言って、私のバックグラウンドや過去を直接見て来たわけでもない知り合って間もない人間に、かなり的を射た正論やアドバイスを受けるのは、精神的に結構来る。お前は私の何を知っているんだーーー、なんて言いたくなる。けれどそれを言わないのは、そのひとが私という存在のことを心の底から想っているということが伝わって来るからだ。
 
 
 
完璧なひとは居ない。
だけど、それが完璧を目指さなくても良い理由にはならないんじゃないか。
そもそもどんな状態が完璧であるのか、完璧になったところで幸せになれるのか、私にはわからない。でも、それが数値で表されるものだったら、やっぱり出来る限り上の数値を狙いたいし、数値で表せなくてもやっぱり自分のなかで納得出来る地点に行きたい。居たい。
 
どんな時も、私は私で生きていくのだ。 私は誰にもなれやしないのだ。私のなかに散らばるガラクタも、眠っているタレントも、私だけの大切な宝物なのだ。