思考を止めるな!
相模原市障害者施設における殺傷事件に、ひとつの区切りがつきました。
正直言って、とりあえず、安心しました。
良かった。
彼は彼の思想によって彼の力で自分自身を裁いたのです。死刑のボタンを押すのは、お前自身だぞ、と言いたい。
でも、
これで終わりだなんて思うなよ。
これで終わりなわけないからな。
この事件の本質は、植松ひとりを糾弾することでも、悪魔呼ばわりすることでも、19人の命ひとりひとりを神聖化させることでも、障害者の個性に美を求めることでも、ない。
優生思想は
どこにでも誰に対してでも何をきっかけとするかも問わず、じわじわと私達に侵食してくる。
考え続けることはとてもつらい。
目を背けたくなるような苦しい現実がそこにはあるし、耳を塞ぎたくなるほどの自分への後ろめたさも感じることすらある。
でも、そこで何も見なかったことにして、聞かなかったことにして、とりあえず生き延びたその先にある明日、私達は何者かにナイフを突きつけられるかもしれない。気づけば自分が誰かを殺しているかもしれない。
この事件の判決がピリオドなんて思っちゃいけない。
思考を止めるな!
おかえり、
なんだかんだとブログ更新滞っていてすみません。でも、元気です。
一つご報告。
この春から、大学生になります。
25歳になる歳に、短大卒という肩書を持っていながらも、1年次から入ります。卒業はストレートで出来たとしても28歳。
前期試験の結果、学科1位になれたようなので、無事入学金、授業料ともに無償になる特待生に選出されました。4年間継続するためにも、成績は常に上位でいなければなりませんが、とりあえずこの権利を奪取しました。いえーい。
いろんな意見があるのは承知しています。経済的にもゆとりがあるような家庭でも無いのに、偏差値もネームバリューも地理環境もそれほど良いとは言えない地方の私大に、この年で進学することに、なんの意味があるのか? きっと疑問に思うひとはたくさんいますし、たくさん出逢うことになると思います。残念ながら、私は未だに自己肯定感マックスでバリバリな人間ではないので、そのたびにきっとどこかでクサックサッと心に傷をつけることもあると思います。
ただ言えるのは、私はこの決断を、決して生半可な気持ちでしたわけではないということと、私の夢や未来を心の底から応援してくれたり、私のことを好きだと言ってくれるひとが確かにいる、ということです。
もはやそれだけで良いのです。
このご時世です。いつどこでどんなことが起きるかわからない世の中だからこそ、目先のことや目に見えるものだけに左右されないで、自分の人生を自分の力でしっかりと作り上げていきたいです。
🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀
備忘録
社会を変えるだとか、すべての人を幸せにするだとか、そういう大仰な夢は、いつの頃からか見なくなった。この社会の矛盾と冷たさを誰よりも理解しているような顔をすることも、すべての人という定義を的確に表現する語彙力も、私には持ち合わせていないことに、きっと知らぬ間に気づいていた。
けれど、やっぱりこの社会には、オカシイところが確かにあって、お金の回り方も、愛の行く先も、契約や約束の意味も、何かがどこかでずれていて、みんなが言う社会からコロンと零れ落ちたひとにたいする、嘲笑や軽蔑や叱責が、あまりにも響き渡りすぎていて、どうやら正しさと正しさは、いつだってどこだって、相容れないようだった。
きっとSiriに聞けば、間髪も入れずに綺麗で収まりの良い答えを提示してくれる。いちいち立ち止まらなきゃやってけない私達の知能は、簡単に数値化されてしまう。
津波で流されたあの子たちは英雄になり、ウイルスで死んだ彼は数字になる。飛び降りた彼女も、下敷きになった母娘も、ガソリンに塗れた彼らも、ほんとは、社会なんか変えなくて良かった。問題提起のきっかけになんて、ならなくて良かった。生きてさえいれば、この世界で、ただただ、平凡に、普通に、純粋に、生きてさえいれば、それで良かった。
それで良かったのに、
それで済まされなかった彼ら、
それだけで良かったのに、
それで済まされようとされている誰か、
「ただいま、」
「おかえり、」
この言葉のために、私は、奔走する。
1月
📖読んだ本
『人間』又吉直樹さん
- 作者:ヘルマン ヘッセ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1951/12/04
- メディア: 文庫
初公判、所感。
あけましておめでとうございます。
今年はブログの更新を上げることが目標の一つです。どうぞ宜しくお願いします。
さて、
今日は、相模原市の知的障害者施設にて起きた、障害者殺傷事件の加害者、植松の初公判でした。
このブログに、何度となく書いてきたことですが、私は短大の卒論を、この事件をテーマにして執筆しました。実際にやまゆり園へ赴いたり、兄が入所する施設の従業員にインタビューしたりしました。
この事件が起きてから執筆しようと心に決めるまでも、執筆中も、そして短大卒後から今に至るまでも、つまり私は、この事件のことをずっとずっと頭のどこかで考えていて、それにもかかわらず、それに関する報道や論文を読むことを避けたがってきました。
この、こんがらがった糸のようなぐちゃぐちゃした感情を、ぐちゃぐちゃのまま、今日、ここに記録しておきます。これは私の私による私のための記録にほかならず、誰かと議論したりする材料にはしたくないことを先に記しておきます。
私は、植松は、ただただ自分の欲望や意思をあのような形で露出させてしまったただの人間なんだな、としか思えないのです。その事件の当初、大麻を服用していたかどうかとか、精神障害を患っていたかどうかとか、そういうのは正直言ってどうでも良いのです。まあ、今日の初公判については、なんじゃお前と蹴飛ばしたくなりましたが。
でも要は、自分のなかに自分の思想を仕舞っておけるかおけないか、それだけの違いで、誰かしらのことを排他的に見ていたり、何かのカテゴリーに属する団体や個人に対して「あいついなきゃ良いのに」と思うのは、意外と誰しもにあると思うのです。それは、国際間の情勢を見ていても、歴史の教科書を読んでいても、いつだって、どこだって、起きていることです。
ここまで書くと、それだけでオイオイお前は植松のことを擁護するのかと右からも左からもビンタが飛んできそうですが、当然私は植松を擁護する気は毛頭ありません。だいたい、ちょこっと障害者施設で働いた経験があるだけでそんな「弱音」を吐くなんて、甘いんだよ、と言いたい。優生思想は、自分のことをちゃんと客観的に見つめられない甘い人間のすること。
でも、それと同時に、植松のことだけを加害者として悪魔呼ばわりする人々や、知的障害を個性と見なす風潮も、私にはフワフワした気持ち悪さを感じるのです。今回書きたいのは、ここです。
この気持ち悪さには、私には遠い昔に感じた記憶が蘇ります。小学校の頃、『光とともに』や『だいすき!』といった、知的障害者を題材にした漫画やドラマが少し流行りました。私の同級生も、ウンウンと頷きながら図書館で本を借りて読んでいたり。
率直に言って、あー、他人事ってほんとうらやましいわあ!!!何も知らないくせにばーか!、と思うのです。笑
私以外の障害を持つ者の兄弟姉妹を、私はもちろんひとより多く見てきました。みんなそれぞれです。完全に妹のことを否定し、居ないものとする者もいました。汚らわしいものを見るかのような目で兄や姉を見つめる妹もいました。逆に、ちょっと心配になるほどに献身的な想いを弟に持ち続け、自身も支援学校の教諭になったひともいます。
けれど、彼らが本当はどんな思いで自分と血が繋がった知的障害者を見てきたのか、私にわかるすべはありません。なぜなら私自身が、私自身のことをわからないから。
たぶん私は、表面的に見れば、とても最重度の知的障害を持つ兄にたいし、理解と思いやりのある妹に見えていたと思います。兄のことに関して作文コンクールや弁論大会で賞状を持って帰らないことはなかったし、兄の学校の行事にもとても進んで参加していたし、何よりも私は兄のことが大好きでした。(いや、大好きです)
でも実際は、買い物やドライブは本当に本当に命懸けで大変だったし、兄を優先することがあたりまえだから我慢することは多かった。ここにそんな辛かったことや嫌だったことを羅列しつくすことなんてできないくらい、大変でした。その大変さや我慢を認識できるようになったのは、つい最近のことで、ずーっとずーっとあたりまえ、あたりまえ、あたりまえ、そしてしかたない。それで済ませてきました。
お兄ちゃんがいなきゃ良かった、そんなこと絶対に口になんか出せないから、その代わりに、私はお兄ちゃんの葬式に出席する夢を定期的に見ることで、現実とのバランスを取っていたのだと思います。(これも最近になってちゃんと認識できたこと)
だから、障害は個性だとか、障害者だって頑張って生きているとか、みんなそれぞれ役割があるとか、そういうものにものすごい胡散臭さを感じるし、気持ち悪いのです。
そして、その辛さや大変さや我慢をすべてすべて呑み込んだそのうえで、私は兄のことが大好きだし、大切な兄なのです。知的障害者としては知りません。知的障害者として以外の兄を、私は知らないから。
まとまりがなくなってきたのでそろそろ終えますが、つまり、新聞記者にしろ、大学教授にしろ、園長や遺族にしろ、他人事な文章にとても苛立ちが募っているということです。あんな形で死んじゃって可哀想?ふざけるな、という気持ちです。遺族121人中25人のアンケート結果が主な意見なんじゃなくて、残りの96人こそが主な意見なのです。大きな声で言語化されているものだけがすべてじゃないのです。そこに隠されたもっとたくさんのけたたましい沈黙を、決して忘れてはいけないのです。
2019.12.31. 所感
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時が経つのは本当に早いもので、2010年代もあと数時間で終わりです。このブログを開設してから、4度目の大晦日だなんて、本当に信じられない気持ちでいっぱいです。
前々回の記事で結構今年の総括しちゃったので、今回は違うことを書きます。私が勝手にメンターとして崇めている方々がこぞってnoteに書いているもののパクリです。私もはてなブログじゃなくてnoteにしようかなあと悩みながら、結局だらだらここにいます。
題して、もう買わないアイテム「Things that no longer I buy」です。
私の場合、買わないものの他、やらないこと、も追加して書いていきたいと思います。買いたいものとか理想の生活、みたいなことを考えるのも勿論大事なことだけど、敢えてもうしないと決めたことを書くことで、自分が本来なりたい自分、みたいなものが研ぎ澄まされるような気がするのです。
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1. 3000円以下の香水
大切に毎日つけられる香りに出会わない限り、絶対に買わない。つけない。
2. チーク
似合わないから。
3. ネイル
同じく似合わないから。料理するときとかに気になる。自分では不器用過ぎて出来ないし、ネイリストにやってもらう時間とお金がもったいないから。
4. ブランドのロゴが目立つ鞄、財布
ダサい。
5. コンビニのコーヒー
一杯100円なんて高いしそんなに美味しくない。
6. コンビニのお弁当、スーパーのお惣菜
食べていて気持ちが荒むから。
7. スナック菓子
肌が荒れるから。ただし百均でまとめ買いするブラックサンダーは例外。あれは間食に丁度よいので。笑
8. 家庭用サイズの調味料
それなりに自炊していても、一人暮らしだと良い品質、ペースで使い切れない。収納場所も困る。百均で小さいサイズを買ったほうがスマート。
9. ノート、メモ帳
小さい頃の使いかけの残骸があまりにもたくさんあるから。まったく、どうしようもないなあ。
10. ポイントカード
Tポイントカードで殆ど事足りているから。あと、クレカも増やさない。むやみやたらに自分の名前や住所を書かない。
11. Twitter
過去に2回ほど試したけど、すぐ挫折した。自分の気持ちをこまめに吐露することも、ひとのもっともらしい考えや私生活を眺めるのも、すごく精神がすり減るから。因みにインスタグラムはアプリとして入れてないけどアカウントは消さない。
12. 芸能人関係のゴシップ、週刊誌
どうでもよいから。
13. テレビ
一人暮らし歴約4年のうち、必要と感じた経験が一度たりともないから。NHKの集金のひとがちょっと鬱陶しいけど、まあとにかく絶対に要らない。
14. YouTube
これは100%要らないわけじゃないけど、インスタグラムと同じでアプリを消した。好きなYouTuberがいないこともないけど、無くても生きていけるし、不愉快になるものも目に入るから。
15. Yahoo!やLINEニュース
正直言って悪意のあるタイトルや気持ちが下がる記事が多い。ここまで書くと、じゃあどこで情報を入手するんだと言われそうだけど、大学の図書館の新聞やポッドキャスト、Newspicksで十分過ぎるほどだと私は感じている。
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とにかく、精神的にエネルギーを吸い取られやすいものは、私には合わないみたいです。良く言えば感受性が豊か、ってことなのかもわかりませんが、情報量が多いものがとても疲れてしまうのです。あとは、身に着けたり食べたり飲んだりしていてしあわせになるわけでもないものも同様の理由から。別なことに精神も胃も使いたい……。
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来年は、ちゃんと今を集中する環境を、もっともっと充実させたいと思います。あと、ブログの更新頻度も上げる!考えていることや今を記録することって、未来の私にとってめちゃくちゃ大事!と過去記事を読み直していてきがついたので。それに書きたいことはたくさんある。
2020年、もっと笑顔な一年になりますように!