え ん

人生は連鎖する、

今の、わたし。

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気がつくと前職の先輩たちや以前住んでいた時の街並み、その仕事していた私自身、あの日々を、思い出す。ライトエースと擦れ違うだけで、スーツを着た男性を見かけるだけで、先輩じゃないか、同期じゃないか、なんて目で追う。鮮やかな切り花を見ると、あの街で行きつけだった花屋のことを考える。通帳に記帳するたびに、あの頃の残高と比べてしまう。それよりもっと前の自分を思い出しては、あのころの努力不足や選択ミス、思考の浅はかさに辟易とする。




私は、まだ、一歩も、前に進めていないのだと思う。


住まいも落ち着いて、有難いことに良い環境の職場もある。新しい出会いも沢山ある。ぎりぎりだと言いつつも、衣食住の整った生活が出来ている。昨日も今日も明日も明後日も、ちゃんと手帳でタスクが管理されている。読むべき本も、観たい映画も、行く予定のドライブも決まっている。


それでも、前の職場に居続けたほうが、しあわせだった?

そう聞かれたとしても、私は頷けない。きっとあのまま妥協と惰性で社長が私を留めることを許しても、私はどんどん私の首を絞めていったことだろう。今みたいに、英検を受けてみようだとか、関心のある本を読んでみようだとか、積立NISAや株の動きについてもっと知りたいな、だとか、露とも思わずに、目の前の仕事や圧力に溺れていただろう。出来るはずの自分像が、出来ない自分をいつまでもどこまでも追いかけてきて、追い詰めていって、潰されていただろう。


だから、これで、良かった?





自分探し、という言葉が嫌いだ。自分なんて、探すも何も、ここに今いる存在、それ以上でも以下でもないと思うから。


けれど、やはり、私はどこかに自分を落としてきたように思う。常に、社会からペタリと貼られるラベル(性別、婚姻、就業体系、納税額、学歴、履歴書、手先の器用さ、語彙力、、、)で自尊心を測っているし、過去の自分や他者と比べた今の自分の欠落点に日々絶望している。ニュースや新聞で目にする痛ましい事故や事件に対する報道の仕方の、悪意のないナイフで血まみれになっている。......これはどういうことか? 私は自分を測る物差しを、他者に対してまでも、用いているふしがどこかにあるのだろうと思う。つまり、私は、人を選別、差別している。こんなふうになりたいひとと、あんな考えには陥りたくないと思う人とで、シッカリと線を引いている。どこかで私は、自分で自分を貶めていると同様、隣にいる誰かのことを、貶している。






もっと鏡を見る勇気を持ちたい、と思う。


今の自分で、毎日、生き切る。



それが、ひとのことを思いやる、第一歩なんだろうな、と。今の私が今の私に優しくしてあげない限り、他人に対する冷たくて鋭利で、かつ無意識にも振りかざすナイフを捨てることは、出来ないだろう。私には、過去も未来もない。今の私を愛してあげることだけに、集中したい、そう思う。