会えない、ということ
短大時代のバイト先の先輩が、亡くなったと友人から連絡が来た。友人はまだそのバイト先で働いている。
私が辞めてからわずか3か月後、先輩はちょっと2ヶ月くらいバイト休む、と言っていたらしい。そしてその2か月後、マネージャーが彼女に連絡すると、彼女はもう亡くなっていたのだという。
先輩はよく、夫が末期でさあ、と軽快に笑っていた。家族の話をたくさん話す代わりに、自分自身のことは何も語ろうとしなかった。もしかしたらーー、と思う。もちろんもう、知るよしはない。
とてもショックだ。
もう会えないかもしれない、ということと
もう会えない、ということの違いを、この世界に生きているどれだけのひとが理解しているのだろうか。
実際、私は今、バイト先からは電車で三時間近くもかかるような距離の場所に住んでいる。わざわざそこへ行く用事が、この先にもあるとは思えない。きっと、先輩が生きていようとなかろうと、彼女に会うことはもうなかったろう。
けれど、
もう、私は、彼女に会えないのだ。
ひとの死、を考えることがとてつもなく多い。
それは希死感情とは全く異なる。私は決して死にたいとは思っていない。
けれど、ひとが死ぬ、ということを、私はどこかで常に考えている。
私たちはいつだって死と隣り合わせで生きている。
ニュースを見れば、いつだってどこかの誰かが亡くなっている。
それなのに、私たちはいつだって明日のご飯の支度を考え、来月に友人と会う約束をし、何年後かの自分を想像する。
死ぬ、ということが、どれほどの重さなのか、私にはわからない。私はなにかを悟ったような真似もできない。何もわからない。
365(6)日は飛ぶようにすぎていく。
そのいずれかが自分や大切な誰かの命日になるということに、私は怯える。
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自身の備忘録として。
同期と、感動ポルノについて話をした。
この仕事におけるプロの姿勢について、考えさせられた。
ありがとうを追求すること、サプライズに精を出すこと、それ自体に問題があるわけではない。けれど、それだけにフォーカスを当てすぎると、この仕事で一番大切な何かを落としてしまう気がするのだ。誰のための、誰による、イベントなのか。置き去りにされた主人公は、もしかしたら明日の私かもしれない。
私は今日も、長いクラクションを聞いている。