え ん

人生は連鎖する、

THE LAST OF WINTER VACATION

 

f:id:mercy0707:20171222192035j:plain

 

 

強くなった、と最近思う。

周期的な気分の浮き沈みも落ち着いているし、よく笑うしよく動くしよく休む。突発的な行動は殆どしなくなった。一日中なんの予定も入っていない日が無くなり、日々常にやらなければならないことは、まるでミルフィーユのように重ねられていくのだが、それでもまあ、とりあえずこなしている。

発達心理学の講義で、ある意味意識的に、またある意味では無意識的に蓋をしているような、そんな過去を掘り返されるようなことがある。友人の行動や言動の端々から、ふとあの頃の自分の影がちらりちらりと見えることもある。あ、聞きたくない。これ以上見ていたくない。そういう時、心のなかにある耳や目をコントロールできるようになってきている。ふさぐこと、そむけることが正しい時だってある。平静を保つ。過ぎ去りし者とは戦う必要なんかない。私は武器を捨てたのだ。

 

 

 

きっと、人生というのは、 右へ、左へ、と行ったり来たりしながら、前へ進んで行くものなのだろう。あるいは、くるくると回転しながら上り行くもの。だから、今の私のこの強さが、永遠に続くだなんて思っていない。また沈むこともある。絶望の眠れぬ夜を過ごすこともある。今は想像だにしていないような隕石が、突然私の頭上に降る可能性だってあるのだ。

 

 

無駄な経験なんてない、と言う人がいる。無意味な出会いもない、と。

確かに、今の私の精神は、今までの一つ一つの経験、その時に出会った人との思い出から培われたものだ。私は今までのことに関し、深く反省することはあっても、今は後悔なんてひとつもない。

けれど、私はその言葉を、人には掛けたくないと思う。その言葉の意味を知らない者にとって、その言葉の並びは凶器だ。

渦中にあったとき、その出来事が有益なのか無駄なのか、正直言って私には全くどうでも良いことだった。未来の私がどう捉えるか、生かしていくか、そんなことより、今この瞬間のこの悲劇を、どうにかしてほしかった。

 

そう、

どうにかしたかったんじゃない。

どうにかしてほしかった。

 

つららのように冷たく尖った言葉だけれど、主体性を持たないまま、今散らばっている問題に平伏している人間は怠慢だ。世に言う努力論、自己責任論が苦手なのは今も全く変わっていないが、他でもない自分自身を幸せにする努力が足りない人間については、私はその人を擁護する真似はしたくない。自分を幸せにする努力を怠る中には、他者を幸せにしようと奔走する者もいる。しかしそれは嘘だ。本当は他者のことなんか、これっぽっちだって考えてやしない。他者から見た自分を認めて欲しくて、愛して欲しい、と傾倒する。私の場合、それが家族であり、学校であり、恋人だった。

 

 

 

自分を幸せにする努力。それは、運動や勉強と同じく、トレーニングだ。

とりあえず、今私が思いついただけの私なりのトレーニングを羅列してみる。

 

自らが課した最低限のタスクを確実に達成していき、自らを褒め称えること。

好きなもの、好きな人に、好きだと率直に伝えること。

嫌いなこと、苦手なものに対して、一度物理的、精神的距離を置くこと。

よく笑い、よく泣き、よく怒ること。

自分だけのおまじない、ルール、ルーティンを持つこと。

自分しか入り込まないエリアの清潔を保つこと。

自分のなおしたい癖や短所を常に意識しつつ、否定しないこと。

朝、太陽の陽射しを浴びること。

自分から、誰か(何か)に挨拶をすること。

話しかけられたら、返事をすること。

意見を求められたら、深呼吸すること。時には意見しないという意見もある。

まずは半信半疑でもやってみること。

試行錯誤をしてみること。

時には潔く諦め逃げ去ること。

 

 

 

最後に、

ひとは、自らに降りかかってきた不幸や絶望からでしか、本質を学べない。

変わるというのは、死してなお生きる、そういうことだ。