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人生は連鎖する、

沢山遠回りしてきた戯れ日記

記録を蓄積しなかったことの弊害

 

ブログを書く意味、って何なんだろう、と考えてみた。

このブログを始めたのは今から1年ちょっと前だけど、私にはブログを書く習慣は随分前からある。中3の時点で、ガラケーで文字を打っていた覚えがあるから、かれこれ6、7年くらいか。

でも、その習慣には、「書き溜めていたブログを削除する」という良からぬ習慣まで引き摺り回って来た。なんだろう、精神的に、ある一定の基準値を保つためにブログを書いてきたのに、それがふとした瞬間に崩れると、もう過去の自分から目を背けたくなるのだ。過去。どこまでを「過去」、どこからを「今」と線引きできるのか、きっとこの先もよくわからないままだ。

 

でも、あくまでも、私が最近になって推論しているに過ぎないことなのだけど、ブログでも鍵付きの日記帳でもSNSでもアルバムでもなんだって構わないのだけど、「その時の自分」の記憶を記録させるツールって、想像よりはるかに大きなちからをもっているんじゃないか、と。もはや、絶対的に正確な歴史など存在し得ない、というのが歴史学の再出発だと言われているけど、個人的な記録簿については、全てが正確である必要はそもそも全くない。当時の自分の身に何が起こり、それを受けて自分はどう感じ、行動したのか。その記憶を、感情的に、叙情的に、記録し、蓄積していくこと。それは、自身の救済措置に繋がるのだ。

 

基本的に人間っていうのは全く都合の良いイキモノで、幾らでも過去と他者に対しては、歪曲、再構築させたうえで自分のなかに取り込もうとするものだ。でもまあ、それはそれでいい。今は、政治や国際情勢の話をしたいわけではないのだから。

 

今の自分が如何にして今の自分に成り得たのか、成らざるを得なかったのか、そういう形の無いふわふわとした概念を、記録というのは実証してくれる。あの頃よりはマシっていう感覚、学習経験から来るこの先の進路選択、それは頭のなかで思い描くことより、文字や音声から学ぶことのほうがずっと有意義なのだ。

 

 

 

具体的な話をしよう。

私は今、就活生だ。

ある企業から一次選考通過のメールを頂戴したものの、他にも様々な業界を摘み食いしている。エントリーやら説明会やら面接やら、私には縁がないと思っていたことを、今必死に咀嚼、嚥下しようと踏ん張っている。

それでも、

それでも、

それでも、

行き着くのは、いつだって福祉業界なのだ。

何だろう、掃除機が吸い寄せてくるような、無理矢理手が引っ張られるような、この感覚。マイナビからくる「お知らせ」、郵便受けに入ってくるDM、目に止まる看板。いつだって私の思考回路は「福祉」をエンジンに回っているようだ。

 

もし、あの頃書いていたブログが今もこの世に存在していて、それを今、読み返すことができるのなら、少しは変わったのだろうか、と思う。祖母、祖父との思い出。両親への想い。兄に対する気持ち。私と福祉という文字を切り離せなくさせた強力接着剤を、文字として改めて読み返すことが出来たなら、案外容易く福祉と訣別、或いは和解出来たのかもしれない。わからない。そんな気がするだけだ。

 

 

どうしたらいいんだろう。

このままだと、私、本当に、何も解決していないまま、また福祉という海原に身を投げようとしている。どうしたらいいんだろう。