え ん

人生は連鎖する、

未来の自分のための備忘録


駅前で、某大学生たちが、大きな声で熊本地震被災者のために、募金活動をしてた。
みんな、きらきらしていた。凄いなあって、素直に思う。
私は、学校の看板を背負ってまで、そういう活動をする勇気が無い。怖いから。

その活動が終わって、その活動のメンバーたちが階段を降りていた時、ちょうど私も同じ帰り道だった。
ふと横を見ると、大きな荷物を抱えた、ホームレスのようなおばあさんが、エイヤホイサと一段ずつ降りていた。
一人の大学生がそのおばあさんに気がついた時、彼女はあからさまにそのおばあさんを避けて、不愉快そうな表情をした。


私は何か違和感を覚えた。
でも、だからと言って、私がそのおばあさんを助けられるわけでも、救えるわけでもなかった。
そもそも、おばあさんは大学生にも私にも、もしかしたら社会全体にさえ、救いなんて求めていないのかもしれない。だいたい、その大学生を糾弾する権利なんて、私には何にも無いのだ。私は、表立った社会活動なんて、何もしていない。


前の記事でも少し触れたけれど、私は学生主体のボランティアサークルなどの活動を批判するつもりはない。むしろ、きっと大事なことなんだと思う。協調性とか、団結力とか、責任感とか、コミュ力とか、私が身につけなければならないものの宝庫だ。だいたい、私はただでさえ就職不利な履歴書抱えているのだから、そういうところで活躍するべきなのかもしれない。

でも、
何か、引っかかってしまうんだ。
何かが私を止めるんだ。

 

話は少し変わるけど

『保育園落ちた、日本死ね』っていう匿名ブログを発端に、保育士の給料が少し上がるところまで行き着いた。
羨ましいな、って思う。
そんな過激な匿名の発言が、多くの人に共感され、共鳴して、署名活動や国会の議論にまで発展して、総理がそういう決断をするに至ったのは、他でもない、そのブロガー以外にも待機児童問題に苦しむ母親が多い、つまり大多数の人間が抱える問題だからだろう。
それだけたくさんの人たちが苦しんでいるのは事実。私は母親になったことが無いから、なかなか共感しきれないけど、きっと大変なんだろうな。

でも、
それは、
きっと、
待機『児童』だから。

 


私の過去話なんて、つまらないし誰も興味なんてないだろうからあまりしたくないけど、
もし、私が、あの時、

 

障害者施設落ちた、日本死ね
ってこのブログに書いていたら、障害者施設で働く支援員の方々の給料は、上がったのだろうか。


特養落ちた、日本死ね
ってこのブログに書いていたら、介護職員や家族の負担は、少しは軽減されるのだろうか。

 

世の中は多数決だっていうけど、
もっと、もっと、何か深い根も、ここには潜んでいる気がするんだ。

 

 

 

この2つの話には、ひとつ共通点がある。

ただ単に、人間の心理的な問題だ。
なんとなく近寄りがたい人、つまり、自分や自分の周りとつながりが感じられない人に対してなら、人はどこまでも無情になれるし、無関心でもゆるされる。

そんなのは仕方がないことで、毎日流れる悲しいニュース一つ一つに、誰も彼もが共感して涙を流していたら、世界は回らない。みんなうつになってしまう。
でも、
仕方がないって、しょうがないって、どうでもいいって、受け流すこともあれば、
その通りだって、団結しようって、社会を変えようって、大きな組織となることもある、
この境目や価値観の差について、誰も教えてくれない。目を向けようとしない。

 


私は今、上の階に住む人の顔を知らない。性別さえ知らない。
隣の部屋の人が、学生なのか、社会人なのかも知らない。もしかしたら同じ大学に通っているのかもしれない。その人がどんな気持ちで朝を迎えているのか、どんなキャラクターの持主なのか、私は知らない。何ひとつ、知らない。

 

 

 

私は、まだ、この世のことを、何も知らないんだと、気づかされる。

机上の空論にならないように、私は私の出来る範囲のことを全うします。はい。