自分を信頼するためのトレーニング中。
目を背けたくて堪らない現実。嘆いても喚いても変わらない現実。
その内容であったり、その瞬間に抱いた感情であったり、景色であったり。
そういうものを、言語化するって、物凄いエネルギーが必要だ。感情に名付けをすることって、かなり危険で暴力的だ。今を「悲劇的だ」と表現したその瞬間に、今の私は「悲劇的な」人間へと変貌する。本当のことなんて、誰にもわからない。
目を閉じても耳を塞いでも、現実はいつも私の隣で横たわる。時に、呆然と立ち尽くす私を見上げながら、そいつは私を嘲笑う。おいおい、いつまで期待してるつもりだい?
何かを失う、ということは、何かを失った経験を得る、ということと同義だ。けれど、喪失という名の拾得物が、私を本当に強くしてくれたのか、私にはわからない。私が深く沈んでいた時間というのは、その時にたまたまそういう時期に相当していただけで、経験がそうさせたものではないのかもしれない。また、傷ついた経験は、勝手に私が傷ついた、と痛がっていただけの話で、傷つけた相手や出来事は傷つけたつもりなんて無いのだろう。私が痛い、痛いと泣き叫んでいたその時間は、ただのロスだったのだろうか。だとしたら、とても空しいことだ。何のために私はその相手と出会ったのだろう。信じたのだろう。信じさせたのだろう。
ひとを信じる、って、何なんだろう。
他ならぬ自分自身のことを信頼せず、ひとを信じるなんてことが出来るのだろうか。そこに何らかの破綻や予期しない終結があったとき、それは超特急で崖の下か、或いは宇宙空間に投げ込まれるようなものだ。
じゃあ、自分を信頼するにはどうしたら良いか。
それは、小さな成功体験を積み重ねることだろう。継続することだろう。自分が立てた目標や計画を遂行できた時に、身体中に広がるあの感覚。そう、幼い頃に、補助輪をなくして自転車に乗ることができたあの瞬間の感覚。あれを重ねると、自分のことを信頼することができる。何か新しいことに挑戦して、仮にまた失敗をしても、とりあえずこの地点より下に行くことはない。だから大丈夫、安心して前へ進むことができる。そんなクッションの役割を果たしてくれる。
その感覚の経験がまだ浅い人間に、根拠なんてなくて良いからやってみろ!とりあえず走れ!挑戦だ!チャレンジだ!なんて熱血論を謳いあげても、何の意味もない。また、挑戦せずにその地点に安住するなんて怠慢だ、努力不足だ、などと叱り飛ばすことは、まったく的を射たない。今いる居場所や帰る場所がままならない人間にそれを要求することは、発展途上国や紛争国にいる、お腹を空かせた子供たちに哲学や思想を理解させるようなものだ。彼らに「汝の敵を愛せよ」と言ったところで、明日のご飯が出てくるわけでも命が保証されるわけでもない。
小さな成功体験、とは。
今日は昨日できなかった洗濯を回せた、とか、土曜なのに学校行事に参加できた、とか、バイトで嫌味言われても我慢できた、とか。
実は11時頃まで布団のなかでボヤボヤしていた、とか、筆記試験が近いのに勉強してない、とか、最近自炊してない、とか、そういうことはとりあえず置いておく。ほんとは置いといちゃまずいのかもわからないけど、でも、それでも置いておく。
どんな1日だったか、なんて、客観的に考えれば事実は全部同じだ。でも、捉えかたやフォーカスを当てる出来事を変えるだけで、随分と次の日の気持ちは変わってくる。
そして、次の日にアンラッキーな気持ちを持ち越さないためには、できるだけできることをその日のうちにしておく。机の上を片付ける、お皿を洗う、カバンの中を整理する、着替えを準備する、シャワーを浴びる、炊飯器のタイマーをセットする。
うまくいかないときは、自分にしか通用しないようなおまじないやライフハックを見つける重要な時間だ。私は、沈んでいるときのために、洗濯した後のハンカチを溜めている。沈んだ時にそのハンカチにアイロンを掛けていると、不思議と元気になるのだ。よし、じゃあブラウスも掛けてみよう。よし、とりあえずここを片付けよう。よし、皿を洗おう。よし、シャワーを浴びよう。よし、ペンを持とう。よし、課題をやろう。よし、今日は寝て明日は少し早く学校行って勉強しよう!
そんな良循環を生み出すキッカケになってくれる。しかもハンカチにきちんとアイロンかかってると、なんかデキるひとっぽい。笑
おまじないというか、私は香りを嗅ぐことが大好きだ。必ずバイトに入る前は、お店に売っている香水のテスターを嗅いでからにする。通帳残高が目標の金額を達したら、私はその香水を買うと決めている。
そしてバイトが終わったら、ちょっと高かったけど奮発して購入したハンドクリームを塗る。このハンドクリームが全部無くなるまではとりあえず続けるんだ、と目標を立てている。私は私をそうやって催眠術のようにして操る。私の場合、それが一番有効なのが香りなのだ。
私の今の状況は、落ち込み続けようと思えばどこまででも落ち込める。超がつくほどしんどい。一応進んでいるけど、内定までの道のりはまだまだ遠い。予習も課題も多い。やりたい勉強、研究に集中できない。とにもかくにも稼がなきゃならない。そんな矢先に、警察にお世話になるようなことにも巻き込まれた。まったく、ずいぶんな一週間だった。
毎晩物や人に八つ当たりした罪悪感で眠れなかったり、インスタント食品に頼ることで吹き出物だらけになったりしたけど、それでも私は落ち込み続けるわけにはいかない。ここで何もかもをほっぽりだすわけにはいかない。少しでも、少しでも、ハッピーなことを考えたり、ハッピーになれるような行動をして、一過性なものだとしてもハッピーになるしかない。まだまだひとのことを信じられるようになるまで時間はかかりそうだけど、それでも自分を信頼するための、愛してあげるための努力、トレーニングを怠らない。アパートの部屋では死んだような顔していても、せめて外の空気を吸っているときは、必要最低限のノルマをこなす。そんな自分を褒めてあげよう。毎日とりあえず外の空気を吸っているだけでも、私にとっては十分過ぎるほどの進歩なのだから。
備忘録
なんだか本当に、最近の私は日々の暮らしが雑然としていて、全く心が落ち着かない。気分は常にジェットコースターのような上がり下がりを繰り返していて、それは他者にも影響を及ぼしているような気がする。自分に優しくなれない人間は、他者にも自分に対する負荷や罰を要求してしまう。孤立するって、そういうことなのかもしれない。
先日、この本を読んだ。
選考途中だった企業の面接に、次回はフェルミ推定を出すと言われて購入した。結果として、その面接へ行き着く前に🙏お祈り🙏されてしまったのだけど、まあ買ったことに後悔はしていない。ちょっと極端な文体が鼻につくときもあるが、実際にここに書いてある内容は私に必要なことばかりだったから(それはつまり私に地頭が無いということである)😤。
私は来月、22歳になる。
21歳の総括や22歳の抱負をこの記事に書くつもりはない。ただ、もう、本当に、本当に、(というか今更)、自分の二本の両足で歩いて行かなければならないんだな、と痛感する。
身体的にも、精神的にも、経済的にも、私はこの先、自分でひとつひとつPDCAサイクルを構築して行かなければならないのだ。自分の無理や限界を知ろうとせず、少しでも限界を超えるための訓練もせず、無防備に裸のまま社会に出ることは、戦場に行くそれと同じだ。危険というより、もはや愚かだ。失敗を怖がらない強さは、成功するための用意や努力無しに語ることではない。
さっき、22歳の抱負を書くつもりはないと言ったけれど、実はそれは、書くつもりがないというより、書けないんだ。
サンスクリット語で「夢」とか「願望」を意味する、サンカルパ、という言葉がある。このまえ、瞑想してみたら?と友人に言われて、面白半分に「寝たまんまヨガ」という無料アプリをインストールした。そのナレーションで、サンカルパを言い聞かせましょう、と言われたのだけど、私は思いつかないのだ。驚いてしまう。高校時代まで、溢れんばかりの夢や志望校を先生に並べていた私は、今、何も思いつかないのだから。
お金が貯まったら高等機関に戻りたいだとか、そのためにちょっとでもお給料良いところに就職したいだとか、本当の本当はマスメディア関連の職に就きたいとか、あることにはあるんだけれど、なんだか昔みたいに純粋無垢にサンカルパを唱えられない自分がいる。まあ、、、無理か。みたいな。それが、私の理想を大きくかけ離れた、つまらない大人になるってことなんだろう。
もっと自分を遠くから眺める努力を、しなきゃな。
全体を、抽象化させて、最後や結論から、客観的に自分を見つめる。
難しすぎてよくわかんないけど、もうちょっと本気で自分と向き合う必要があるのは確かみたいだ。
真夜中の更新ほど危険なものはない
こんな時間に更新するとか、絶対ロクな文章書ける自信無いんですが、書きます。眠れないんだから仕方ない。
🌎就活状況の中間報告としましては、絶賛スランプ中です。10社以上選考行ったうち、4社は二次選考まで漕ぎ着けたけど、そこから惨敗してます。ひとからの激励や慰めがものすごく今の私には鬱陶しいので、とりあえず今の私には近づかないほうがよろし。
🌏卒論状況を報告するにしても、こっちもこっちで行き詰まっています。とりあえず、事件後の新聞記事やら論文やらは少し読むのを一時停止して、スピヴァクや彼女が批判しているフーコーの著作を読んでいます。フーコーのほうは、あまりじっくりしっかり読み込むとそれだけで年明けちゃいそうなんで、まあ必要なとこだけスキャニング的な読み方になるかな、と。
卒論の内容は以前書いたこれです。
この本がなきゃ、私は本当にこの卒論を書く覚悟が固まらなかったと思う。サバルタンは語ることができない。この現実を、スピヴァクとともに、私は声高に訴え続けたいと思う。
- 作者: G.C.スピヴァク,Gayatri Chakravorty Spivak,上村忠男
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1998/12/01
- メディア: 単行本
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- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,田村俶
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1975/02
- メディア: 単行本
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🌍そしてプライベートのほうも、ちょっと一波乱、二波乱ありまして、ほんとーにまあ、要するに全体的に不調です。ああ、ほんとにバイト辞めたい。。。むしろ私、何で続けているんだろう。。。いや、まあ続けないと就活出来んのだけどね。。。
🎈🎈🎈🎈
この社会で、生きにくさを感じている人って、やっぱ結構いるみたいだ。
本屋に行けばそういうひとの実体験とか、処世術的な本とか漫画が堆く積まれている。セミナーとか相談窓口みたいなものも、以前よりずっと増えた。これはたぶん、そういう該当者が増えたんじゃなくて、声をあげられる環境が、ちょっとづつ、本当に本当にちょっとづつ、整い始めている証拠なのかな、と思う。
えーこったーえーこったー、と思っていたのだけど、この前、知人に、精神障害者の手帳を発行したらどうかと言われた。そして、どっさりと、ご丁寧に付箋までつけてくれて、障害者のための求人雑誌を私に差し出してくれた。
⚠️私は、障がい者ではなく、障害者、と敢えて漢字で全て書くようにしています。私なりの考えがあった上で記載していますが、万が一不快に思った方に対しては謝罪します。申し訳ございません。⚠️
私は、その知人の言わんとしていることは理解出来る。月曜の朝からから金曜の晩まで本当に他の人と同等に勤務できるのか、週5回満員電車に揺られて通勤できるのか、いやいやそもそも決まった時間に朝起きられるのか、っていうことをすごくすごく心配してくれているんだ。そして彼女は私を心配するに値する地位にいる。
私はその日から3日くらいよーく考えた。
なぜ今、このようなアドバイスをもらったのか。(内定決まらんからか)
私は今、精神科、心療内科を受診していない。今年の初めか去年の暮れに、もう来なくていいよ〜って医師の方から言われたから。まあ私も要らんと思ってた。それで、今、なかなか内定決まらんからって、再び病院に訪れて、手帳の発行をお願いしろ、と。‥‥‥そりゃ詐欺やないか?
いや、でも確かに彼女の言っていることは一理あるんだ。本当に週5日8時間プラスαみんなと同等に働ける自信は、私にだってない。万が一倒れちゃったとき、実は2、3年前まで多重人格のヒッキーでしたあ、なんて笑いごとじゃない。わかってる。私のためというか、企業のためでもあるんだ。
そんなふうにしてぐるぐる考えて、まあやっぱり答えなんて元から決まっていることに気づいた。私の場合、いつだって、ぐるぐる考えているその時点で考えなんてすでに決まっているんだ。
なんとかなるんじゃね?ってこと。
今までだって何とかなってきた、というか、何とかせざるえなくって何とかしてきて、何とかここまでやって来たんだから、まあこの先何があってもとりあえず私は何とかするでしょう!と。
それと同時に、私はもう、この学校で最後にしたい、と思うんだ。自分の病気や過去を盾にして、社会からの圧力を避けること。特別許可を得ること。
ここで誤解しないで欲しいのは、今、現在、病気と闘っているひとたちは、逃げているわけでも甘んじているわけでもない、ってことだ。過去の私も、病気に甘えて現実逃避していたわけじゃない。本当に本当に、見えない敵と必死に闘っているんだ。それが病気ではないひとと違う敵だから、なかなか理解しがたいものがあるかもしれないけど、過去の私も、今の誰かも、ずーっと、全力で闘ってる。
でも、今の私は、もう、そういう時期じゃないんだ。その敵と闘うことは、もう終わり。それだけの話なんだ。
今でも、ほんとに就職決まらんし、やりたいことにも集中できないし、バイトはほんと意味わからんことばっかだし、ちょっとここには書けないようなことで凹むことあったし、もうほんとだめだなあ、嫌だなあ、もうほんと何もかも忘れてパチンって割れてしまいたいって思うことは何度も何度もある。その度に体に悪そうなものをやけ食いして(やけ酒は決してしないことが不思議だ)、胃がもたれてフラフラになるパターンを何度も繰り返している。
でも、それでも朝は来るし、シャワー浴びれば着替えしてるし、靴履けば玄関のドア開けるしかないし、学校行けば座る席があるし、駅に行けば電車は来る。そうやって、毎日毎日、ああこれもダメだった、あれもできなかった、それも終わってない、どれから始めていいかわからん、ってわめきながら、うめきながら、一歩づつ、前に進むしかないみたいだ。
そうだ、自分。
生きづらさを感じてるのは、自分だけのせいじゃない。むしろ全てを環境のせいにしたっていい。でも、どんなにデキが悪くても、ぶきっちょでなーんも完成しなくても、気づいたら同じスタートラインにいたひとの背中が見えなくなっても、何を思い出せないのか思い出せないくらい頭がこんがらがっても、バイトで誰も彼もに相手にされなくなっても。お徳用チョコレートを全部食べた後に70円のコロッケ5個食べて顔がぶくぶくになっても。一歩も前に進めない日があったっていい。玄関の扉が開けられない日があったっていい。部屋が散らかってコーヒーこぼしたまま夜が明けたっていい(片付けるのは自分である)。
それでも、それでも、それでも。
今、自分が進みたい方角。今、つま先が向いている方角。それだけは、睨んでいよう。よし。
はっ
今日は歴史学のテストだ‥‥‥💔
母、とは。②
自己分析②
更新頻度が高い‥‥。
暇なわけでは決してないけれど、近況を少しづつ投稿します。週1~2のペースで書いていけたら、なんて目論見中。本当にそうするかは未定。
あ、そういえば今日は久しぶりに、タブレットからの投稿です。ああ、キーボードで打てるって素晴らしい。
自己分析②というタイトルですが、諸事情の関係で、かなり個人的な話(オフラインの私を知っている人でなければわからないような事柄)を婉曲しながら書きます。いつも以上に理解しにくい文章ですが、ご了承ください。
🌎🌍🌏🌎🌎🌏
今年に入ってからのこのブログ記事を読めば、「とあるひと」がどれだけ私にプラスの影響を与えていたのかがよくわかる。私は、「とあるひと」からの言葉を一字一句逃すまいと必死だった。Evernoteや手帳を開けば、彼から貰ったたくさんの思い出たちをすぐに取り出すことができる。
「とあるひと」
この言い方、なんなんだろう。
私にとって、彼は何者だったのだろう。何者であるべきだったのだろう。
彼に違和感を持ち始めたのは、実は随分前なんだと思う。なんか、飼主に都合の良いペットみたい、って自分で自分に突っ込んでいた。でも、私が一度、両手を広げて投げ出した社会のど真ん中で闘い続けてきた彼の言葉は、いつだってなんだって正しく聞こえた。いや、たとえ正しくなくても、反抗することに疲れていた。彼の言う通りにさえしていれば、彼を笑顔にさせられるようなことをしていれば、オートマチックに社会で通用する人間になれる。まるで高速電車に乗り込んだかのように、私は自身の思考を止めて目的地まで安住した。一つ一つ疑問を持って立ち止まっていたら、この怒涛な社会では渡り歩けないのだ。
だけど、そんなふうに自分をごまかしてうまくやっていけるほど、私は器用な人間じゃない。だって私は今でもNのことが大好きだし、自分のなかに生きる過去の出会いや別れを心から愛しているし、尊重している。
それを一度箪笥の中にしまってベストを尽くすことと、それを完全に否定して真上からグシャリと潰し壊すことの違いが、彼と会う頻度が縮まるごとにどんどんわからなくなっていった。もちろん彼が私に教示したかったのは前者だ。過去を破壊しろなんて、一言だって彼は言っていない。そんなことは明解だ。でも、直接言語化していないだけで、彼からは一種のカルトを感じた。十中八九、彼自身がそのことに気づいていたと思う。終盤は、私以上に彼は彼に疲れていた。
普遍的な論理と彼個人の意見の区別がつかなくなっても、首を縦に振り続けるほど私は強くもなく、また弱くもなかった。
彼は私に、きみに人権はない、と言ったことがある。
もちろん、これは笑い話だ。お互い冗談だということはちゃんとその時点でも理解していた。
でも、結局、私が彼から離れたいと思い、それを半ば強引な形で彼に剣先を向けたのは、その言葉が引き金だ。
私は、彼と知り合う前から、人権という言葉を知っている。フランス革命後、ラファイエットが人権宣言を起草したことも、現行憲法の第11条に基本的人権の尊重について規定されていることも、1948年に世界人権宣言が採択され、その31年後に日本が批准したということも、私は知っている。だから私は、彼が私に人権がないと言っても、それが冗談だということを理解できたし、笑って受け流すこともできた。
でも、もし、人権の意味を知らなかったら、きみにジンケンがない、と言われても、それに屈するしかない。ああ自分は、他の人たちと違ってジンケンというものが欠落している不良品なのだ、と信じるより他ない。
そしてそのジンケンがないと言われ続け、その人のお人形として生きた結果、意図しない形で社会から外れてしまった時、人々からめでたく【自己責任】という言葉を投げつけられるのだ。
おそろしいことだ。
私が言われたのはたまたま人権だったけれど、この社会にはこういう類の事でたくさんのひとたちが食い物にされている。
彼に染まり、軸がばらばらに崩れていたのは、明らかにこれは私の改善していかなければならないことだ。善悪や真偽や勝負を超越した自分の軸が無い段階で、ひとの意見に全てを委ねることはお互いの破綻しか待っていないのだ。
私は自分の意志と責任を持って自分の人生を生きていかなきゃならない。
だから勉強は決してやめないし、その意志と責任を、客観的な結果を以って、彼からの愛情に還元しなければならない。それが彼に対する最大の感謝と謝罪だ。彼が私にくれた時間は、本当にかけがえのないものだと今でも信じて疑わないけれど、その思いは形で残さなければ意味をなさない。
具体的に言えば、基礎体力づくりとベストな就職活動に集中する。今、私がしなければならないことは、それだけだ。
善意ある暴力は優しさですか
悪意ある優しさは暴力ですか春夜に塗り重ねた嘘は何色ですか
幸せを抱き抱えた闇は何色ですか切り捨てられた4の行方を追い続け
山の頂上に残る雪を溶かしわすれた引き揚げられた稚魚たちを眺め続け
水底で眠る月の影を落としていった
生まれて初めて日本海を見た日に書いた詩
ふらふらと勿忘草の揺れにけり
忘れ草一輪摘みし夜明けかな