え ん

人生は連鎖する、

母、とは。②

 

地上の星を大音量で聴きながら、金曜の18時過ぎの新宿駅をスーツで歩いていると、なんかドキュメンタリー映画の主人公になった気分になるのでオススメです。笑

バイト先の先輩が週2回しか入らない私を横目にしながら、連休が欲しいとボヤいていましたが、私は休日が欲しいです。はい。


でも毎日それなりに健康に充実しています。就活ができるって、とてもしあわせなことですね。感謝感謝。




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母の日ですね。
私は正直、ほぼ毎日と言っていいほど母と連絡を取り合っているので、母の日だからと言って何か特別に感謝の気持ちを伝えるぞ〜みたいに意気込むことはあまりしてません。笑   


ただ、母にとって、今日は特別の日になりそうです。母の母、つまり私が約18年間同居をしてきた私の祖母と、ほぼ絶縁関係にあった母の妹と、親娘3人で食事に行くとのこと。

祖母は今、老健に入居しています。かなり重度の認知症で、先日私が会いに行った時は私の名前を忘れていました。「忘れたんじゃないわよ〜思い出せなかっただけよ」という、なかなか面白い迷言を残したので許してあげよう。笑

そして母の妹、つまり私の叔母は、私にとって未だに燻りつづける存在です。祖父が亡くなってから私が急激に病気が悪化した、もっと言えば、大学受験以降の私の人生をメチャメチャにしたのはこの叔母のせい、とずっと思い続けてきました。今は以前ほどその思いは無いですが、やはり私は、今も冷静な気分で叔母と会うことはできないと思います。

そんな叔母が、母の日に親娘3人で食事をしたいと誘ってきたとのこと。


なんだよ今更、と母も私も思ったのですが、母の日とか、◯◯の日、って、そういうもののためにあるのかもしれません。

ちょっと疎遠になってしまって、今更連絡をするのもなんとなく気が引ける。でも、連絡したい。会いたい。もう一度やり直したい。

母親に限らず、そういう存在って、いませんか?
たとえば、お正月とかに、勇気を出してあけおめメールを送ってみたら、案外話が弾んで会う機会を得られたり。いつも恥ずかしくて言えないことも、暦がそういう日を設けてくれるとするっと言葉が出せて、相手もその言葉を受け入れてくれる。



きっと叔母も、この日を待っていたのでしょう。
たとえ自己満足だとしても、実の母親が自分のことを把握できないとしても、単なるワガママだとしても、親娘の時間を過ごしたい。そんなどうしようもない叔母の夢を叶えさせてくれる母の日は、やっぱり偉大だ。笑




母。
難しいですよね。お母さんって。

母親になりたくてもなれない女性もいて。
母親になりたくなくてもなる女性もいて。

母親に依存しつづけてしまうひともいて。
母親に依存されつづけてしまうひともいて。
母親をゆるせないひともいて。
母親からゆるされないひともいて。
母親のことを思い出せないひともいて。
母親のことを思い出したくないひともいて。
母親との関係に後悔や反省があるひともいて。


どんな感情であれ、
みんな、母親のことを思う瞬間がありますね。この世に生を受けたひとは、須く母親から生まれたのですから。




今、お母さんとの関係で、何か燻りがあるすべての人へ。

無理して今、お母さんに感謝しなくていいんだよ。
親なんだから感謝、尊敬しなければならないなんてことはないのです。産んでくれたというだけで母親を愛さなければならないなんてこと、ないのです。

でもね、きっと、きっと、今のその燻った思いは、無駄じゃないのです。10代の反抗期であろうと、長年の苦悩の思いであろうと、たとえその思いが一生変わらなくとも、その思いはあなたの人生において、大きな意味を持つのです。


今の思いを決して、決して否定しないで。
周りがどうであろうと、どう言われようと、今の自分にとっての母に対する気持ちを、決して否定しないでほしいのです。その思いは、必ずこの先のあなたを強くする。深く深く傷ついた経験を持つのなら、深く深く憎んだってよいのです。最大の復讐は、あなたが幸せになることなのですから。  


自己分析②

 

更新頻度が高い‥‥。

暇なわけでは決してないけれど、近況を少しづつ投稿します。週1~2のペースで書いていけたら、なんて目論見中。本当にそうするかは未定。

 

あ、そういえば今日は久しぶりに、タブレットからの投稿です。ああ、キーボードで打てるって素晴らしい。

自己分析②というタイトルですが、諸事情の関係で、かなり個人的な話(オフラインの私を知っている人でなければわからないような事柄)を婉曲しながら書きます。いつも以上に理解しにくい文章ですが、ご了承ください。

 

 

 

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今年に入ってからのこのブログ記事を読めば、「とあるひと」がどれだけ私にプラスの影響を与えていたのかがよくわかる。私は、「とあるひと」からの言葉を一字一句逃すまいと必死だった。Evernoteや手帳を開けば、彼から貰ったたくさんの思い出たちをすぐに取り出すことができる。

 

「とあるひと」

 

この言い方、なんなんだろう。

私にとって、彼は何者だったのだろう。何者であるべきだったのだろう。

 

 

彼に違和感を持ち始めたのは、実は随分前なんだと思う。なんか、飼主に都合の良いペットみたい、って自分で自分に突っ込んでいた。でも、私が一度、両手を広げて投げ出した社会のど真ん中で闘い続けてきた彼の言葉は、いつだってなんだって正しく聞こえた。いや、たとえ正しくなくても、反抗することに疲れていた。彼の言う通りにさえしていれば、彼を笑顔にさせられるようなことをしていれば、オートマチックに社会で通用する人間になれる。まるで高速電車に乗り込んだかのように、私は自身の思考を止めて目的地まで安住した。一つ一つ疑問を持って立ち止まっていたら、この怒涛な社会では渡り歩けないのだ。

 

だけど、そんなふうに自分をごまかしてうまくやっていけるほど、私は器用な人間じゃない。だって私は今でもNのことが大好きだし、自分のなかに生きる過去の出会いや別れを心から愛しているし、尊重している。

それを一度箪笥の中にしまってベストを尽くすことと、それを完全に否定して真上からグシャリと潰し壊すことの違いが、彼と会う頻度が縮まるごとにどんどんわからなくなっていった。もちろん彼が私に教示したかったのは前者だ。過去を破壊しろなんて、一言だって彼は言っていない。そんなことは明解だ。でも、直接言語化していないだけで、彼からは一種のカルトを感じた。十中八九、彼自身がそのことに気づいていたと思う。終盤は、私以上に彼は彼に疲れていた。

普遍的な論理と彼個人の意見の区別がつかなくなっても、首を縦に振り続けるほど私は強くもなく、また弱くもなかった。

 

 

彼は私に、きみに人権はない、と言ったことがある。

もちろん、これは笑い話だ。お互い冗談だということはちゃんとその時点でも理解していた。
でも、結局、私が彼から離れたいと思い、それを半ば強引な形で彼に剣先を向けたのは、その言葉が引き金だ。

私は、彼と知り合う前から、人権という言葉を知っている。フランス革命後、ラファイエットが人権宣言を起草したことも、現行憲法の第11条に基本的人権の尊重について規定されていることも、1948年に世界人権宣言が採択され、その31年後に日本が批准したということも、私は知っている。だから私は、彼が私に人権がないと言っても、それが冗談だということを理解できたし、笑って受け流すこともできた。

 

でも、もし、人権の意味を知らなかったら、きみにジンケンがない、と言われても、それに屈するしかない。ああ自分は、他の人たちと違ってジンケンというものが欠落している不良品なのだ、と信じるより他ない。

そしてそのジンケンがないと言われ続け、その人のお人形として生きた結果、意図しない形で社会から外れてしまった時、人々からめでたく【自己責任】という言葉を投げつけられるのだ。

 

おそろしいことだ。
私が言われたのはたまたま人権だったけれど、この社会にはこういう類の事でたくさんのひとたちが食い物にされている。

 

 

彼に染まり、軸がばらばらに崩れていたのは、明らかにこれは私の改善していかなければならないことだ。善悪や真偽や勝負を超越した自分の軸が無い段階で、ひとの意見に全てを委ねることはお互いの破綻しか待っていないのだ。
私は自分の意志と責任を持って自分の人生を生きていかなきゃならない。
だから勉強は決してやめないし、その意志と責任を、客観的な結果を以って、彼からの愛情に還元しなければならない。それが彼に対する最大の感謝と謝罪だ。彼が私にくれた時間は、本当にかけがえのないものだと今でも信じて疑わないけれど、その思いは形で残さなければ意味をなさない。

具体的に言えば、基礎体力づくりとベストな就職活動に集中する。今、私がしなければならないことは、それだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

善意ある暴力は優しさですか
悪意ある優しさは暴力ですか

春夜に塗り重ねた嘘は何色ですか
幸せを抱き抱えた闇は何色ですか

切り捨てられた4の行方を追い続け
山の頂上に残る雪を溶かしわすれた

引き揚げられた稚魚たちを眺め続け
水底で眠る月の影を落としていった

 

   生まれて初めて日本海を見た日に書いた詩

 

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ふらふらと勿忘草の揺れにけり

 

 

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忘れ草一輪摘みし夜明けかな

 

自己分析 ①

 

こんばんは。

この時期を楽しんでいる方も、踏ん張っている方も、お疲れさまです。

 

 

 

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最近の私には、書ききれないほどのさまざまな出来事がありました。具体的にひとつひとつ文字に起こすほどの気力も無いのですが、そこから得た教訓というか、未来の私への忠告、みたいなものを書き残しておこうと思います。
そうです、私には未来がある。何があったって、私はこれからも生きていかなければならないのです。
 
 
 
 
JR東日本の駅ビルショッピングセンター、ルミネってご存知ですか。新宿とか町田とか渋谷とかにある、若い女性向けのテナントが立ち並ぶお店です。
あそこのキャッチコピーが、今の私にとってものすごく大きく響くものがあるのです。
 
『自分に夢中になれないと  誰かを真っ直ぐ愛せない』
 
コピーライターってほんと天才。
たったひとことでひとの心を鷲掴みにして、もうこの上なく離さなくさせてしまう。私はこのキャッチコピーが大好きです。
 
いや、でも待てよ。
自分に夢中になる、って、どういうことなんだろう? 私が最近夢中で取り組んだことってなんだろう?
 誰かを真っ直ぐ愛する、って、そもそもなに、、、?
 
 
 
 
私は先日、ものすごく嫌な思いをしました。
本当に、このまま割れて死んじゃうんじゃないか、ってくらいの頭痛と闘って、どうにか耐えました。
 
 
私は、たくさんのひとを傷つけ、裏切ったのです。
 
 
 
 
傷つけられることに慣れた人間は、傷つけることにも鈍感です。
自他問わず、ひとを傷つける、という行為。その一歩を踏み込んでしまうひとと。踏みとどまるひとの差、というのは、その瞬間に自分を大切に想ってくれる、愛してくれるひとの顔が浮かぶかどうかだと、私は思います。
 
 
私には愛してくれるひとがいます。
これは恋愛云々ではありません。
そのひとが、どれだけ私のことを愛してくれているのか、わかっていたつもりでした。本当に感謝しているつもりでした。私もそれと同等、それ以上に愛しているつもりでした。
‥‥‥つもりでした。
 
 
 
 
 
だけど、そのひとのことどころか、誰のことさえも、私は愛してなどいなかったのです。なぜなら、そのひとを愛していると言っている、他でもない自分自身のことを愛していないから。本気にも、夢中にも、なっていないから。
 
 
 
とても有名な心理学者、エーリッヒ・フロムは自身の著作で、『愛は技術だ』と言っています。つまり、努力する過程の中で学び得られる知識や経験の積み重ねであり、運でもなければ先天的な能力でもない、ということです。
 
 
私はとても怠慢な人間です。
 
失敗や落胆が怖くて、自分の力で試して負けることが嫌で、恥ずかしくて、面倒で、逃げ回ってきました。自分のせいにせずに生きられるラクな方法を見つけてしまって、逃げ回ることがやめられなくなっていました。止まらなくなっていました。
 
 
 
ふと、中学時代、剣道部に所属していた頃を思い出します。
信じられないほど弱くて、全然勝てなかったけど、剣道している自分は好きでした。先輩にコテを打たれ続けて青痣を作っても、頭に火花が散るほどメンを打たれても、どんなにコーチに怒鳴られても、顧問や友達に呆れられても、私は剣道が好きでした。
 
高校では、うって変わって文芸部に所属しました。大学の卒論レベルの文学研究をして、川端康成金子みすゞのことは未だに詳しいです。三ヶ月かけて書き上げた詩集や小説を、三秒でボツられたこともあります。でもその分、たくさんの賞や名誉あるものをいただきました。
 
 
 
その頃もしんどくて嫌で本気で辞めたい、逃げたい、と思ったことは何度も何度も何度もありました。でも、その頃、私の隣には、いつだって共に闘う仲間が居て、目の前には、つねに課題と〆切がありました。
 
 
 
そう考えると、やっぱり、大学受験、か。
7歳の頃から介護してきた祖父の死や、それに伴う親族同士の諍い、苦悩が、ただの理由づけであったことは、おそらくあの時点で私の周囲の誰も彼もが気づいていたことでしょう。それを私に問うことを許させないほどの私の強い反抗と拒否は、どこから湧き出てきたのか‥‥‥。不思議だ。そこまで致命的な成績だったわけでもないのに、寧ろ数値的にも精神的にも信頼はあったのに、どうして私はあそこまで大学受験を避けたかったのでしょう。
 
 
いや、全然、些細なことだと思う。
誰もが陥るような、受験の不安。
たまたま、その不安を回避できそうな、正当化させられるような、哀しい出来事と重なり、それのせいにしてみたら、止まらなくなったのです。雪だるまのように肥大化していったのです。
逃げた理由や責任を転嫁できるものに縋ることを赦された気でいられました。
 
つまり、ラクをすることを覚えたのです。
やらなくても特別に済ませられる術を身に付けてしまった。
 
 
 
生まれた時から特別扱いされることに慣れていた私は、それを自分自身で自由自在に操るようになってしまったのです。ある時は優等生として、またある時は障害者として、そしてまたある時は被害者として、、、
 
 
 
恐ろしいことだと思います。
そうしているうちにそれが定説になって辞められなくなって、逃げることから逃げられなくなっていた。自分が望んでベッタリと貼り付けられたシールは、なかなか剥がれません。私はこういう人間です、そういう看板を背負っていれば誰も私に近づけないからです。
 
 
 
そう、きっかけは、本当に小さな小さな歪みとそれに合致する材料、(有るものも無いもの、有るべきものと無くて良いものの比重)とのタイミング、歯車が合った、それだけ。本当に、それだけ。それだけなのです。
 
 
このことに気づかせてくれた、
つまり、下り坂を駆け抜ける雪だるまの肥大を無理矢理、強引に、止めてくれたあのひとには、心から感謝したいのです。

 

 
 
 
私は私が嫌いです。
苦手な人や相容れない人の特徴について考えていると、いつの間にか自分の弱いところや隠したいところについて考えていることに気づきます。それくらい、私は私という人間が、苦手です。私が私から避けているから、なかなか夢中になれるものに集中できないのです。
 
 
 
 
ねえ詩織、
今のあなたはとても危険だよ。
自分の身は自分で守りなさい。
自分の気持ちに嘘をついて誰も彼もに笑顔を振りまいているうちに、気がつくと一番大切なものを失うよ。
自分のことを愛せないうちに、相手のことを思いやるなんて、愛してあげるなんて、百億年早いのよ。
 
 
 
 
 
 
うーん、、、まとまりがないけど、ちょっと今日はここまで。疲れてるみたい。

 

 

逃げるってなんでしょう。


 

少しだけお久しぶりです。

みなさん、お元気ですか。

私は、あまり元気ではありません。でも、そんなことを言ったところで、元気が湧き出てくるわけでも、目の前の景色が明るくなるわけでもないので、精一杯、今出来る問題を解こうとしています。

 

 

 

今バイト帰りで、電車に乗っているのですが、私が楽しみに購読しているブログが更新されていたので、嬉しくなりました。そして、その記事を読んだあと、今の自分を思い、何と言うか、少しだけ複雑な気持ちが拭えなかったので、この気持ちを私のブログに書きます。

 

そのブログ、ここに掲載しても良いのかしら? うーん、わからないから、載せない。あと、Kさん、不快に思われたら、本当にごめんなさい。

 

 

【許可を得たので掲載致します 2017/05/07】

koyukisdec20.hatenablog.jp

 

内容は、平たく言うと、「逃げても良いんだよ」ということです。

今、辛い環境、状況にいたら、その場から逃げる、という選択肢を取っても良いんだよ、と。

 

 

私、最近、本当によく考えるんですね。

今通っている大学の進学をきっかけに、私は、岩手、つまり実家を出たけれど、それは本当に、良かったのだろうか、と。

今、私は就活生として、関東エリアの企業をエントリーしています。Uターンするつもりは、今のところ、ありません。それが今後の私にとって、本当に幸せなことなのか、今の私にはもちろんわかりません。

 

 

ほんの三年程前、四畳半の煎餅布団しかない部屋に閉じ込められていた私は、この一年間で、見知らぬ土地で一人暮らし、都内でアルバイト、そして新宿でリクルートスーツに身を縛られながら、厳しい毎日を生き抜く、「どこにでもいる大学生」になりました。

今、辛いこともしんどいことも嫌なことも不愉快なこともたくさんあるけれど、とりあえず、それに耐えながら、ごまかしながら、「普通に」生きられるほどの人間になりました。

 

 

だけど私は、

たまたま、本当にたまたま、家族以外に、家族同然、或いはそれを超越して、私のことを大切に思ってくれる存在に出会えたから、今、こうしているわけです。精神的にも、経済的にも、未来の私に希望を持ってくれ、支援してくれたひとがいるから、私は実家から逃れることができたのです。

 

 

中学生の頃、私はずーっと、

『なぜ私が「ただいま」と言える場所はここしか無いのだろう』

と思いながら、リビングからの怒声や泣き喚く声をBGMにしながら、隣の部屋で父親が引きこもるなか、自室で手首を切っていました。その時、私は、ただつらい、しんどい、苦しい、だれか助けて、というような内容の詩を、ノートに書きなぐっていました。

 

だけど、逃げたい、とは思わなかった。

逃げる、という言葉すら、その時の私の頭の中の辞書には無かった、というほうが正しいかもしれません。

 

 

 

 

 

今の私は、その頃の私や、その頃の私のような状況下にいる子どもに、特に掛けてあげるような言葉はありません。何を言っても嘘になる気がするから。

 

だけど、

逃げたくても逃げる場所も見つけられずにいるひと、

客観的に見ればどう考えてもその場が地獄なのに、地獄であることすら知らずに、天国に行く地図を知らないまま、ただただ辛い思いを堂々巡りしている、せざる得ないひとが、今、この瞬間に、確かにいるのだ、ということ。

 

そして、その地獄を作っているのは、他でもない、今の私たち、すなわち「どこにでもいる普通の人たち」であふれかえっている、この社会全体である、ということ。

 

 

その現実から、私は目を背けたくないな、と思うのです。それが、せめてもの、過去の私に対する慰めなのかな、と。

 

 

 

 

最寄駅に着いた。明日から、また1週間が始まる。

 

 

母、とは。①


もうすぐ4月ですね。
私が今住んでいるところは、もう既に桜が咲いています。2月に梅の花が咲いたときも驚きましたが、本当に季節のイベントに沿って花というのは咲くものなのですね。初めて知りました。(私の地元、岩手では桜はGW辺りっていうイメージです)



今日は、重いテーマで話を進めようと思います。でも、実際の今の私がテンション低いうつ気味かと言うと、そんなことはないのでご安心を。いや、実は、梅酒を飲みながら文字を打っています。誤字脱字駄文長文お許しを。




今日、母親が突然、「詩織にとって一番大切な存在は誰?」とLINEしてきました。

はぁぁ?何今更???という気分だったのですが、母の職場で、そういうテーマの研修があったとのこと。


あまりよく考えず、私は母だと答えました。
そのあとユックリ改めて考えてみると、やっぱり母は私にとって番外編レベルで大切な存在だなぁ、と思いました。

掘り返さないように最近は努めてますが、敢えて今は言います。(アルコール入ってるからね?笑)

私は幼い頃、母の笑顔を一度も見たことがありません。保育園に通っていた頃のことを考えると、私が思い出せる母の表情は、いつだって、困り果てたような、疲れ果てたような、しんどくてつらくて悲しい顔、それだけです。


今日、その頃の話を、ようやく母は文字として表してくれました。


【まあ、今だから言うが。あの頃、詩織が2〰3歳の頃のおかあは生きた屍だった。ーーー死のうとか死にたいとは思わなかったがなんも楽しくなく、ただその日を過ごすことだけで精一杯で➰。考えないようにする。思考を止める、そんな感じの毎日だった。(原文ママ)】




障害をもった息子と手のかかる時期の娘を抱えながら、家族全員から孤立していた母。何の協力もなく、誰からの支援もなく、どんな応援の言葉もなく、ただ、ただ、孤独だった母。




本当に、声を大にして言いたい。
二、三歳の頃の子ども時代は、想像を超えて遥かに、遥かに、その後の人生に大きな影響を与えます。
その頃に、無条件な愛情を注がれ、一番近い存在のしあわせそうな笑顔、笑い声を聴くことが、この先、ひとりの人間として生きるうえで、どれだけ大切なことか!

そのうえで、
母親という生き物の周りの環境って、ものすごく大事なのです。



私は、母親になったことがありません。
だから、どれだけ母になるということが大変なことなのか、わかりません。 日本が死んで欲しいと思うほど、保育園に入園することが大切な意味を持つ、ということも、実感や経験論をもって語ることは出来ません。





だけど、まるで能面のような表情で毎日を生き抜いていた母のもとで生まれ育ったからこそ、言いたい。

女性という単体から、突如母親という肩書きを背負ったひとを取り巻くみなさん、

そのひとのために、
そのひとの子どもの将来のために、

そのひとに、決してあなたはひとりじゃない、孤独なんかじゃない、ということを、言葉で、行動で、伝えてあげて下さい。



私は、この先、母親になるどころか、結婚するかどうかも、わかりません。正直に言うと、今は、ひとりで生きて行くほうが私には向いている気がしますし、淋しい時もあるだろうけど、なんだかんだ言ってひとりの時間が一番自分らしいと思えます。何より、独身でバリバリ働く女性、ものすごくものすごく、カッコいい。


でも、
どんな状況下であれ、どんな性格、思考の持ち主であれ、どんな気持ちで子を授かったひとであれ、私は、一度でも母という肩書きをもった女性を、私は心から尊敬しますし、支援していくような女性でありたい、そう思うのです。


p.s.
この類の話、もう少し掘り下げたいので、いずれまた違う感じで続きを書きます。