え ん

人生は連鎖する、

母、とは。①


もうすぐ4月ですね。
私が今住んでいるところは、もう既に桜が咲いています。2月に梅の花が咲いたときも驚きましたが、本当に季節のイベントに沿って花というのは咲くものなのですね。初めて知りました。(私の地元、岩手では桜はGW辺りっていうイメージです)



今日は、重いテーマで話を進めようと思います。でも、実際の今の私がテンション低いうつ気味かと言うと、そんなことはないのでご安心を。いや、実は、梅酒を飲みながら文字を打っています。誤字脱字駄文長文お許しを。




今日、母親が突然、「詩織にとって一番大切な存在は誰?」とLINEしてきました。

はぁぁ?何今更???という気分だったのですが、母の職場で、そういうテーマの研修があったとのこと。


あまりよく考えず、私は母だと答えました。
そのあとユックリ改めて考えてみると、やっぱり母は私にとって番外編レベルで大切な存在だなぁ、と思いました。

掘り返さないように最近は努めてますが、敢えて今は言います。(アルコール入ってるからね?笑)

私は幼い頃、母の笑顔を一度も見たことがありません。保育園に通っていた頃のことを考えると、私が思い出せる母の表情は、いつだって、困り果てたような、疲れ果てたような、しんどくてつらくて悲しい顔、それだけです。


今日、その頃の話を、ようやく母は文字として表してくれました。


【まあ、今だから言うが。あの頃、詩織が2〰3歳の頃のおかあは生きた屍だった。ーーー死のうとか死にたいとは思わなかったがなんも楽しくなく、ただその日を過ごすことだけで精一杯で➰。考えないようにする。思考を止める、そんな感じの毎日だった。(原文ママ)】




障害をもった息子と手のかかる時期の娘を抱えながら、家族全員から孤立していた母。何の協力もなく、誰からの支援もなく、どんな応援の言葉もなく、ただ、ただ、孤独だった母。




本当に、声を大にして言いたい。
二、三歳の頃の子ども時代は、想像を超えて遥かに、遥かに、その後の人生に大きな影響を与えます。
その頃に、無条件な愛情を注がれ、一番近い存在のしあわせそうな笑顔、笑い声を聴くことが、この先、ひとりの人間として生きるうえで、どれだけ大切なことか!

そのうえで、
母親という生き物の周りの環境って、ものすごく大事なのです。



私は、母親になったことがありません。
だから、どれだけ母になるということが大変なことなのか、わかりません。 日本が死んで欲しいと思うほど、保育園に入園することが大切な意味を持つ、ということも、実感や経験論をもって語ることは出来ません。





だけど、まるで能面のような表情で毎日を生き抜いていた母のもとで生まれ育ったからこそ、言いたい。

女性という単体から、突如母親という肩書きを背負ったひとを取り巻くみなさん、

そのひとのために、
そのひとの子どもの将来のために、

そのひとに、決してあなたはひとりじゃない、孤独なんかじゃない、ということを、言葉で、行動で、伝えてあげて下さい。



私は、この先、母親になるどころか、結婚するかどうかも、わかりません。正直に言うと、今は、ひとりで生きて行くほうが私には向いている気がしますし、淋しい時もあるだろうけど、なんだかんだ言ってひとりの時間が一番自分らしいと思えます。何より、独身でバリバリ働く女性、ものすごくものすごく、カッコいい。


でも、
どんな状況下であれ、どんな性格、思考の持ち主であれ、どんな気持ちで子を授かったひとであれ、私は、一度でも母という肩書きをもった女性を、私は心から尊敬しますし、支援していくような女性でありたい、そう思うのです。


p.s.
この類の話、もう少し掘り下げたいので、いずれまた違う感じで続きを書きます。

🌷🌸🌹🌺💐🌼🌻

 

思い出したくない過去、って、たぶん誰もが持っているものだと思う。

それを俗に、黒歴史、とか暗黒時代、って表現するひともいる。

 

 

過去。

そう、過去だ。

 

 

私は最近、ずっとその二文字から意識的に目を逸らそうとしていた。

考えないように、見えないように、感じないように、覚えないように、もう二度と蘇らないように。

カタカタと沸騰した薬缶のようにフタが鳴り響くこともあったけれど、それでも私は目を向けることをしなかった。たとえ一瞬でも、そのフタを開けてしまったら、私はもうここには戻れない。そんな気がした。もう、絶対、ここの地点まで戻ってこれない。フタの中に眠るそいつは、まるで宇宙の彼方のブラックホールのようだ。そいつは大きな大きな口で、小さな小さな私を呑み込んでしまうだろう。どろどろの胃液に塗れて、私はいつの日か溶けていって、そいつの一部になってしまうのだ。

 

 

 

 

 

私は優しい人が怖い。

 1年くらい前、こんなだらだらと長い記事を書いた覚えがあるけど、今は優しい人が「怖い」のだ。

mercy07s.hatenadiary.jp

 

 

優しい人は、マシュマロが入ったココアのような甘い言葉で、私を何かから守ろうとしてくれる。3時間前から電源を入れていた電気毛布のような温かさで、私を無条件で包み込んでくれる。

 

そのぬくもりが、どうしようもなく、どうしようもなく、私を惑わせ、混乱させ、不穏にさせるということに、優しい人は気づいてくれない。

 

 

ねえ詩織、

そのココア、もう何杯目?

その毛布に触れたのは、もう何度目?

 

薬缶から、熱い熱いお湯が溢れる。

ドロリとした黒いものも出てくる。その正体を、私は知っている。

 

 

 

 

 

お願いだから、フタをさせて欲しいんだ。

今だけで良い。

私に「あの頃」と言わせないで欲しい。

その時の景色、風、匂い、音楽、感触、声色、雰囲気、味、痛み、温度、その全てを、今だけで良いから、封印したいんだ。

 

そうじゃなきゃ、私、もうこの先に行けなくなるんだ。もうここには戻れないんだ。

もう一生、きみの隣に居られなくなるし、この先に出会う新たな人と素敵な景色を見ることも、出来なくなるんだ。

 

 

🌷🌸🌹🌺💐🌼🌻

ね、だから、

今から話す、これからの話に、私と一緒に、花を咲かせて欲しいんだ。

 

 

 

 

【重要】備忘録

 

 

マトモかマトモじゃないかって誰が決めるの?

自分はマトモじゃないとか言って、要は逃げたいだけでしょ?

で、自分で勝手に自分のことをマトモじゃなかったけどマトモになったとかって言って、都合良いんじゃないの?

だいたいみんなマトモだよ。違うこととすれば、死ぬほど努力しているかしていないかの差だけだと思うよ。

時間が許す限り努力しろよ。

きみ、本当はお兄さんのこと、愛してないんじゃない?

自分を守りたい時ばかりにお兄さんのことを持ち出して喚き散らして、ずるいよね。それで許された気になってるんだもん。

 

 

 

 

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今日、久しぶりに一日オフで、今後のこととか、昨日の記事の内容のこととか、今の自分が本当にしたいこととか、そういうことを考えた。

 

そうしたら、

もうどうしようもないくらいに介護、福祉を仕事としてやっていくことに恐怖を覚えて、しんどくなった。

そして、やっぱり社会学の勉強を続けたい、花ちゃんのとこに戻りたい、そう、つまりいっそもう一度教職の道に進み直したい、なんて。

 

単にホルモンバランスの乱れから来る非生産的な思考かもしれないけど、結構気分はネガティヴ気味になっていた。

 

 

 

で、

そんなテンションで会ったひとに、思い切り叱られた。

 

 

それでよくわかった。

私は、今日1日、この現状に飽き始めていて、疲れていて、さっそく逃げようと下準備に取り掛かろうとしていたんだ。

 

 

 

 

死ぬほどの努力、か。

したことなかった。 出来るかどうかもわからない。

でもやるしかないんだと思う。

ベストを継続するしか、今の自分を打破できないんだ。

記録を蓄積しなかったことの弊害

 

ブログを書く意味、って何なんだろう、と考えてみた。

このブログを始めたのは今から1年ちょっと前だけど、私にはブログを書く習慣は随分前からある。中3の時点で、ガラケーで文字を打っていた覚えがあるから、かれこれ6、7年くらいか。

でも、その習慣には、「書き溜めていたブログを削除する」という良からぬ習慣まで引き摺り回って来た。なんだろう、精神的に、ある一定の基準値を保つためにブログを書いてきたのに、それがふとした瞬間に崩れると、もう過去の自分から目を背けたくなるのだ。過去。どこまでを「過去」、どこからを「今」と線引きできるのか、きっとこの先もよくわからないままだ。

 

でも、あくまでも、私が最近になって推論しているに過ぎないことなのだけど、ブログでも鍵付きの日記帳でもSNSでもアルバムでもなんだって構わないのだけど、「その時の自分」の記憶を記録させるツールって、想像よりはるかに大きなちからをもっているんじゃないか、と。もはや、絶対的に正確な歴史など存在し得ない、というのが歴史学の再出発だと言われているけど、個人的な記録簿については、全てが正確である必要はそもそも全くない。当時の自分の身に何が起こり、それを受けて自分はどう感じ、行動したのか。その記憶を、感情的に、叙情的に、記録し、蓄積していくこと。それは、自身の救済措置に繋がるのだ。

 

基本的に人間っていうのは全く都合の良いイキモノで、幾らでも過去と他者に対しては、歪曲、再構築させたうえで自分のなかに取り込もうとするものだ。でもまあ、それはそれでいい。今は、政治や国際情勢の話をしたいわけではないのだから。

 

今の自分が如何にして今の自分に成り得たのか、成らざるを得なかったのか、そういう形の無いふわふわとした概念を、記録というのは実証してくれる。あの頃よりはマシっていう感覚、学習経験から来るこの先の進路選択、それは頭のなかで思い描くことより、文字や音声から学ぶことのほうがずっと有意義なのだ。

 

 

 

具体的な話をしよう。

私は今、就活生だ。

ある企業から一次選考通過のメールを頂戴したものの、他にも様々な業界を摘み食いしている。エントリーやら説明会やら面接やら、私には縁がないと思っていたことを、今必死に咀嚼、嚥下しようと踏ん張っている。

それでも、

それでも、

それでも、

行き着くのは、いつだって福祉業界なのだ。

何だろう、掃除機が吸い寄せてくるような、無理矢理手が引っ張られるような、この感覚。マイナビからくる「お知らせ」、郵便受けに入ってくるDM、目に止まる看板。いつだって私の思考回路は「福祉」をエンジンに回っているようだ。

 

もし、あの頃書いていたブログが今もこの世に存在していて、それを今、読み返すことができるのなら、少しは変わったのだろうか、と思う。祖母、祖父との思い出。両親への想い。兄に対する気持ち。私と福祉という文字を切り離せなくさせた強力接着剤を、文字として改めて読み返すことが出来たなら、案外容易く福祉と訣別、或いは和解出来たのかもしれない。わからない。そんな気がするだけだ。

 

 

どうしたらいいんだろう。

このままだと、私、本当に、何も解決していないまま、また福祉という海原に身を投げようとしている。どうしたらいいんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他者に責任を転嫁する自己責任論

 

しんどいなんて当たり前だよね。

今よりも楽できるなら、誰だって楽したいよ。

辛い記憶を辛いって言語で記録できるって幸せだよね。

逃げる時、ほんとは誰も逃げる理由や背景なんて関心ないんだよ。

自分だって、逃げることさえできるなら、ほんとはどうだっていいんでしょ。

 

ほんのちょっと

あとすこしだけ

もう一歩さきに

そうやって、静かに、だけど確かに、差ってつけていくものなんだよね。

 

でも、よかったね。

立ち止まる時間や抱きしめてくれる人や赦される居場所があるうちは、思う存分、もう飽き飽きするくらい、甘えておきなよ。

 

だっていずれにしたって、自分のなかに散らばったガラクタたちを後片付けしてくれるのは、自分しかいないんだもの、ね?

 

 

 

 

 

最近、「私は責任持てないから」とか、「悪いひとじゃないんだけど」という言葉を、よく耳にする。

電車のなかの女子トークを盗み聞きしたり、ビジネスマンの何気ない会話、テレビのなかの芸能人たちの生産性のないネタから聞こえることもある。

都合がいい言葉だな、と思う。

この言葉を前置きすれば、その後にどんな言葉を繋ぎ合わせても許されるような気になってくるから不思議だ。

結局、人って、自分のことしか考えられないんだと思う。他人のことは、とりあえず自分が今まで知り合った数多くの人たちと比較して、カテゴライズして、勝手に評価して、差異をつける。

全然悪いことじゃない。当然のことだ。私もやってる。きみもやってる。一向に構わない。むしろ常に24時間365日、利他的に行動できるひとは、ちょっと胡散臭さを感じる。私は、あまりそういうひとのことは信頼したくない。てか、コンビニかよ。

 

だけど、自分だけがゆるされることなんて、無い。

世間には、たくさんの綺麗な単語や耳あたり良い台詞は転がっているけど、全部ひっくるめて、シンプルに自分の言葉で言い換えてみて。きっとただの我儘、言い訳なだけだって気づくから。

 

赦されたいと思うなんて甘いんだよ。

許されたいなら今すぐ努力しろ。

歯を食いしばってでも、涙が枯れ果てでも、今、爪先が向いてるほうを睨み続けていろ。

 

 

 

 

責任、って言葉で思い出したけど、

頑張るって言葉、無責任だと思うんだ。

頑張るって言葉には、限界がないから。

だから、私は最近、ベストを尽くす、ってことを意識してる。

私にとってベストっていうのは、自分の限界、っていう意味でもあるけど、それを尚且つ継続できるスキルでもあると思っている。

 

ベスト尽くしていたって、上手くいかないことはもちろんたくさんある。

特にこんな私だ。

今まで怠惰で錆びついた精神状態だった私だ。うまくいくことのほうが少ない。

どうしようもないくらいガッカリすることもあるし、どこかに逃げたくなる。隠れたくなる。もうなんだっていいんだ。どうだっていいんだ。もともと私に出来ることなんてあるわけなかったんだ。そうだそうだ。

 

 

 

‥‥‥でも、

私は逃げない。

 

ここで踏ん張って闘ったところで何になるか?

何にもなれないかもしれない。別にそれでも良い。

何かの教訓を得たくて闘ってるわけじゃない。

 

 

ただ、今まで見ようとしてこなかった景色を、一度見てみたいだけ。