プライドは脱ぎます。スーツは着ます。
就活を真面目にすることにしました。
正直、超がつくほどやる気がなかったけど、本気でこのままだと自分は一生かけても同じことをまた繰り返すし、また同じような結末を迎えて本当に変われないどうしようもないやつになる、と気づいた。覚醒した。
馬鹿みたいに今更だけど、とにかく登れるところまで登り切る。ベストを尽くし切る。
それと、TOEICの点数が未だ600点をいかないカスなんで、春休み中に逃げまくっていた問題集と親友になる。3月に自己最高点を叩き出す。
あと、個人研究のほうも結構活動的に動けている。脚を使うからこそ社会学と呼ぶに値する研究だと思っている。
バイトも二月から本格的に始める目処が立ったので、とにかく稼がねば。就活も勉強も研究もとにかく金がかかる。やると決めたからにはやる。
今まで、自分で自分をダメだなあ、と思ったことは百億回くらいあって、その時間を使って地球を3周くらいできた気もするのですが、ひとからそれはダメだよ、と強い言葉で言われた経験はなかったー。
私の見えない背景を説明する余地もなく、頭からげんこつ鼻を叩き折られた私は、本当にどうしようもなく悔しくて悔しくて、ものすごくものすごくものすごく悔しくて、泣いた。
正論なんて最初からわかってる。「でも」私は今までだってずっとずっと頑張ってきたのよ。
逃げてきた現実を直視してこなかった。臭いものは蓋をしてきた。「でも」私は取り扱い注意の人間だから、最初から最後まで優しくし続けて欲しかった。
都合が悪くなると言い訳してきた。環境が変わっても自分が変わらなきゃ何も進歩しないことくらいわかってた。「でも」進歩や成長なんてどうでもよかった。
「だって」今のままでいたほうが、このままのほうが、楽だから。
そう、全部全部全部わかってる。
全部わかっているからこうやってblogも書いてきた。自分の思考を整理しようともがいてきた。必死になってより良い自分を知ってもらうために頑張ってきた。
だけど本当は
私は自分を知ろうとなんかしてなかった。
本当は説明なんかできないくせに、理解したフリして自分も他人も社会も語ろうとしてきた。論理の破綻や私的なコンディションの都合に合わせて静かに豪快に去る卑怯者だ。
私は努力したことも集中したことも継続したこともない。
このままこのチャンスから逃げ出したら、何も変わらない。
それでも道はある? ふざけるな。ベストを尽くしたことのないやつが偉そうに人生哲学を語るなあほ。
まず、二月は死ぬほど失敗して恥をかいて怒られて笑われて貶されること。
それでためになることだけをメモして記録して、あとは水に流す技を身につける。
恥ずかしいなんて思うような小さなプライドさっさと捨てて、今後の私が大きな誇りを持てるように、今は必死に訓練だ。鍛錬だ。
明日、インターン行ってきます。
何となく衝動的な気分ですし
キャラを作っているように思う、とある人から言われて、すぐに反論をしようとしたということは、それはやっぱり真実だったからなのか。
正論というのはいつだって人の心を揺さぶりかけてきて、台風のような見る影もない傷痕だけを残していく。私は今、とても痛いと感じている。
私が私になる上での根源的な原因をひとつふたつと指折り数えて、またしても動揺し、戦慄し、疼く痛みに甘んじようとしている自分が今ひどく情けない。何をやっているんだ、何をやってきたんだ、、、焦るだけで前へ進めない。キーカラカラ、キーカラカラ。たぬきの糸車を思い出す。
どんなに汚れを隠そうとしても、見てくれだけでも良くしようとベッドメイキングに精を出しても、結局全て痛々しいだけだ。やるのならシーツごとリネン交換しなければ、、、
キャラを作ることに必死なのか、出来てしまったキャラを崩壊させることを目指しているのか、自分でもよくわからない。
でも、私がひどく軽蔑し、嫌悪感を丸出しにして忌々しく思っていた頃の自分でさえ、振り向いてくれる人は確実に居るわけで、強ちその頃の自分を100%批判するわけにもいかないらしい。そして、その頃の自分が犯した間違いによって、今も尋常じゃない痛みに苛まれている私は、100%その頃の私を愛したり感謝の言葉を粋に伝えたりすることが出来ない。でも、20%とか38%とか50%とか79%とか91%とか全くよくわからない。私は数学が苦手なのだ。
純真さがなくなった、と年末に母親から言われた。そう、私はドリーマーからリアリストに没入した代わりに、無垢に笑うことが出来なくなった。何かしらの裏を嗅ぎ取ることが上手くなったことで、表向きの装飾品さえも興味を失った。
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ポジティヴなひとがとても羨ましいと思う。
でも、自分がポジティヴであることに自信を持ち過ぎて、ひとにまでポジティヴであり続けることを要求するようなポジストになるくらいなら、私は今のまま永遠にネガティヴに生きていたほうがマシだ。たとえ暇人で楽をしたがるだけの怠惰な消極的思考者と揶揄されたとしても。私は自分以外の誰かを、悪意がないまま傷つけてそのまま平凡を生きることができるほど強くない。非凡になった者は非凡な道しか残されていないのだ。特にこの世に産み落とされたその瞬間から非凡な私には、「普通」なんて言葉の意味を辞書や本で勉強しても実感が湧かない。
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ああ。やりたいことがわからない。
本当はたくさんあるはずなのに。
素直になろうよ、自分。サングラスなんて外せよ。なあ。
個人研究を進めるにあたって
ゼミの発表が終わり、これから約一年にわたって個人研究に入ります。
その内容は、実は随分前から私は決めていたのですが、ようやくそれに関する文献や資料を読む気になってきました。まだ学術的な知識がほぼ皆無の状態なのですが、だからこそ、今しか書けない気持ちを書いていきます。
その内容は、相模原市で七月に起きた障害者殺傷事件のことについてです。
なぜこの事件について研究しようかと思ったかというと、正直に言ってあまりカッコいい理由はありません。ただ、どうしても、やりたいのです。知りたいのです。それだけです。
でも、知りたい、と思っていた割に、私は知ることがとても怖かった。
前期の試験やレポート提出で追われている最中だったにも関わらず、私は毎日のようにiPadや新聞でこの事件についての記事を読んでいました。
夏休みに入って、私は真相を探ることを諦めました。こんな薄っぺらい液晶画面を眺めていたところで、紙をぺらぺらめくっていたって、私には何もわからなかった。何も伝わってこなかった。精神論なんて私には要らない。とにかく、何も知らない私は、この事件について語る権利はないし、犯人を闇雲に糾弾することさえできない、そう思ったのです。
そうして、真夏日に、安い竜胆の花を片手に、実際に施設を訪れました。
そのときのことは、まだ私はここに書くことはやめておきます。ただ、私は実際に行かなければわからなかったたくさんの現実を目の当たりにし、絶対にこの事件のことを長期的に考え続けていこう、そう胸に刻んだのです。
しかし、
実際のそれからの私は、逆でした。
むしろ、この事件に関するニュースや知識人たちの意見を、なかなか耳を傾けることができなくなっていたのです。
もちろん、私にはこの事件のことを調べるほかにもやることはあって忙しかったり、全く無関係なことで落ち込んだりしていただけ、という見方も十分にあるのですが。ともかく、この事件に関するあらゆることから、私は「意識的に」遠ざかるようになってしまいました。
もちろん忘れたわけでは決してありません。
兄の笑顔を見る度に研究への意欲は高まったし、私のLINEのアイコンは、施設のそばのバス停で撮影した、真っさらな青空の写真のままです。いつだってこの事件を片隅に置きながら、私は目を背けていました。知りたいけど、知りたくなかった。
そして、ようやく、ゼミで個人研究を進めておくよう御達しがあって、最近になってこの事件に関する文献を読む気になれたのです。なるほど、緊急企画としても、いろいろな本がすでに世に出回っていました。
まず先に言っておきますが、私はまだこれらに手を伸ばそうという気になれただけで、具体的にこの中身について論じることはできません。そこまで深く読み進めてもいません。ごめんなさい、これから頑張ります。
季刊福祉労働153号 特集:相模原・障害者施設殺傷事件--何が問われているのか
- 作者: 福祉労働編集委員会
- 出版社/メーカー: 現代書館
- 発売日: 2016/12/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ただ、私、不思議なんです。
こんなに多くの人たちが、事件が起きてこんなに早くに、「緊急企画」として、言葉を紡ぎ出せていることに。
私は、今でも、目を背けたい。事実から逃げだしたい。こんなことはあまり言いたくないけれど、もしも私の兄が事件の被害者だったのなら、私は本当に狂っていると思います。
ナチスドイツの優生思想だとか、ヘイトクライムの具体的な定義だとか、障害者の権利や尊厳だとか、そんな難しい言葉の羅列を、私はまだ飲み込めずにいます。そして、必要のない命は存在しない、とか、障害者だって頑張って生きている、みたいな綺麗な耳当たりの良い言葉を並べられるほど、私は強くありません。 申し訳ないけど、私の兄ちゃんは、多分「頑張って」生きようとなんかしてないから。
この事件が起きてしばらく経ったとき、私はゼミ教授に、先生はこの事件についてどう思うか尋ねました。すると、「日本でもこんな事件が起きるなんて私は思わなかった」とかなり衝撃を受けたとのこと。
でも私は、規模の大きさの違いなだけで、今までこの事件の類は数多くあったことを知っているし、加害者のような思想を持った人間は、私たちの身の回りに、すぐ隣に、確かに存在することを、声高に叫びたい。
私はだめなやつだから、ここに書いておかなきゃ、ここで誓っていなきゃ、やらないまま終わってしまいそうです。流してしまいそうです。そんな自分が怖いから、宣誓させてください。
私は、約一年の卒論執筆をかけて、この事件に関する、メディアの報道や研究者たちさえも取りこぼしていそうな、社会の「現実」を直視することを、ここに誓います。
たまに弱音を吐きに、この題材をブログに取り上げるかもしれません。どうかあたたかい目で見守ってやってください。
戦わない試合には、勝てないのだ。
今私が抱えている感情を、嘘偽り誤りなく目を背けずここに文章化できる自信なんて、いつだって私には無い。語彙力とか表現力以前に、私は私から逃げ続けているからだ。私は逃げたい。逃げたくて堪らない。逃げたい逃げたい逃げたい、いつも頭の片隅でその四文字が踊っている。
2016.12.31.所感。