個人研究を進めるにあたって
ゼミの発表が終わり、これから約一年にわたって個人研究に入ります。
その内容は、実は随分前から私は決めていたのですが、ようやくそれに関する文献や資料を読む気になってきました。まだ学術的な知識がほぼ皆無の状態なのですが、だからこそ、今しか書けない気持ちを書いていきます。
その内容は、相模原市で七月に起きた障害者殺傷事件のことについてです。
なぜこの事件について研究しようかと思ったかというと、正直に言ってあまりカッコいい理由はありません。ただ、どうしても、やりたいのです。知りたいのです。それだけです。
でも、知りたい、と思っていた割に、私は知ることがとても怖かった。
前期の試験やレポート提出で追われている最中だったにも関わらず、私は毎日のようにiPadや新聞でこの事件についての記事を読んでいました。
夏休みに入って、私は真相を探ることを諦めました。こんな薄っぺらい液晶画面を眺めていたところで、紙をぺらぺらめくっていたって、私には何もわからなかった。何も伝わってこなかった。精神論なんて私には要らない。とにかく、何も知らない私は、この事件について語る権利はないし、犯人を闇雲に糾弾することさえできない、そう思ったのです。
そうして、真夏日に、安い竜胆の花を片手に、実際に施設を訪れました。
そのときのことは、まだ私はここに書くことはやめておきます。ただ、私は実際に行かなければわからなかったたくさんの現実を目の当たりにし、絶対にこの事件のことを長期的に考え続けていこう、そう胸に刻んだのです。
しかし、
実際のそれからの私は、逆でした。
むしろ、この事件に関するニュースや知識人たちの意見を、なかなか耳を傾けることができなくなっていたのです。
もちろん、私にはこの事件のことを調べるほかにもやることはあって忙しかったり、全く無関係なことで落ち込んだりしていただけ、という見方も十分にあるのですが。ともかく、この事件に関するあらゆることから、私は「意識的に」遠ざかるようになってしまいました。
もちろん忘れたわけでは決してありません。
兄の笑顔を見る度に研究への意欲は高まったし、私のLINEのアイコンは、施設のそばのバス停で撮影した、真っさらな青空の写真のままです。いつだってこの事件を片隅に置きながら、私は目を背けていました。知りたいけど、知りたくなかった。
そして、ようやく、ゼミで個人研究を進めておくよう御達しがあって、最近になってこの事件に関する文献を読む気になれたのです。なるほど、緊急企画としても、いろいろな本がすでに世に出回っていました。
まず先に言っておきますが、私はまだこれらに手を伸ばそうという気になれただけで、具体的にこの中身について論じることはできません。そこまで深く読み進めてもいません。ごめんなさい、これから頑張ります。
季刊福祉労働153号 特集:相模原・障害者施設殺傷事件--何が問われているのか
- 作者: 福祉労働編集委員会
- 出版社/メーカー: 現代書館
- 発売日: 2016/12/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ただ、私、不思議なんです。
こんなに多くの人たちが、事件が起きてこんなに早くに、「緊急企画」として、言葉を紡ぎ出せていることに。
私は、今でも、目を背けたい。事実から逃げだしたい。こんなことはあまり言いたくないけれど、もしも私の兄が事件の被害者だったのなら、私は本当に狂っていると思います。
ナチスドイツの優生思想だとか、ヘイトクライムの具体的な定義だとか、障害者の権利や尊厳だとか、そんな難しい言葉の羅列を、私はまだ飲み込めずにいます。そして、必要のない命は存在しない、とか、障害者だって頑張って生きている、みたいな綺麗な耳当たりの良い言葉を並べられるほど、私は強くありません。 申し訳ないけど、私の兄ちゃんは、多分「頑張って」生きようとなんかしてないから。
この事件が起きてしばらく経ったとき、私はゼミ教授に、先生はこの事件についてどう思うか尋ねました。すると、「日本でもこんな事件が起きるなんて私は思わなかった」とかなり衝撃を受けたとのこと。
でも私は、規模の大きさの違いなだけで、今までこの事件の類は数多くあったことを知っているし、加害者のような思想を持った人間は、私たちの身の回りに、すぐ隣に、確かに存在することを、声高に叫びたい。
私はだめなやつだから、ここに書いておかなきゃ、ここで誓っていなきゃ、やらないまま終わってしまいそうです。流してしまいそうです。そんな自分が怖いから、宣誓させてください。
私は、約一年の卒論執筆をかけて、この事件に関する、メディアの報道や研究者たちさえも取りこぼしていそうな、社会の「現実」を直視することを、ここに誓います。
たまに弱音を吐きに、この題材をブログに取り上げるかもしれません。どうかあたたかい目で見守ってやってください。
戦わない試合には、勝てないのだ。
今私が抱えている感情を、嘘偽り誤りなく目を背けずここに文章化できる自信なんて、いつだって私には無い。語彙力とか表現力以前に、私は私から逃げ続けているからだ。私は逃げたい。逃げたくて堪らない。逃げたい逃げたい逃げたい、いつも頭の片隅でその四文字が踊っている。
2016.12.31.所感。
ダイバーシティってどこの街ですか?
スマホでブログを更新すると、不思議なところで文字が大きくなるのですが、まあ特に気にせずにいきましょう。
、
どんなことがあっても、
たったひとつだけ、譲れないものがある。
私はこの色を愛しているということ。
そこに私の全てが尽きると言っても過言ではありません。
📎📎📎
生きていれば、良いことも嫌なこともあります。とんでもないくらいの理不尽な状況に追い込まれることもあるし、気がつくと自分が他者にそういう環境へ追い込んでいる場合もあります。
今日、多文化共生社会をテーマにした講義があったのですが、教授が、学生の顔を伏せさせて、日本は移民や難民をより受け入れるべきかどうか、と質問を投げかけました。
私がどちらに手を上げたのか、また他の学生はどういう反応を示したのか、そこは今回私が書きたい内容ではないので割愛します。
教授はその90分の講義内で、第三世界を知る上での私たちの誤解、パレスティナ人であるサイードの理論、スピヴァクのサバルタン研究等についての学説などを取り上げました。いわば、weとtheyの関係、他者とは何者であるのかという考察についての講義でした。
最近最も私が考えていたことだったので、とても興味深く受講していたのですが、やっぱり私は気になってしまうのです。
私が通う大学は、他国籍を持つ学生や教授がそれなりに多くいます。また、キャンパスがある市内も、比較的外国人の方が多いので、そういう人達のためのボランティア団体や支援活動も活発です。英語科なのだから当然と言ったら当然なのですが、それを売りにしているみたいです。
その説明をするとき、必ず教授も学生も、「多文化」「多様性」という言葉を使います。うちは多様な学生を受け入れています、と。
ふうーーーん😑
って思っちゃうんですよね。
彼らにとっては、国際的な相違だけが、多様性なんだな、と。
それって、スピヴァクの一番伝えたかった、「認識の暴力」、そのものじゃないのかな?
たとえば、
身体障害者を受け入れた事例がないこと。
アスペルガーの学生を、ほぼ放置をしていること。
合理的配慮が、先生方によってあまりにも差異があること。
ほとんどの教授、講師が、出身校が同じであること。
バイだとカミングアウトした友人が、そのことで今も人間関係を中々営めないこと。
家族を大切にすることや両親を愛しているひとたちが多く、他者にそれを要求する傾向が強いこと。
比較的裕福な家庭育ちが多いこと。
両親ともに大卒者が多いこと。
何より、
私が並々ならぬ違和感を毎日感じていること。
パッと思いついただけでも、多様性っていう定義を改め直したほうが良いのではないか?と、少し疑ってしまう。
別に、絶対にそういうマイノリティを受け入れろと言いたいわけではありません。
でも、無意識のうちに、自分たちは自分たちの知らない人間を抹殺している可能性があることは、本当に、本当に、肝に命じておくべきだと思います。
サバルタン研究をすることで、余計にサバルタンの人間をサバルタンとして固定させてしまうこのジレンマと、私はもっともっと向き合っていきたいと思います。これは、私にとって、自分という存在ときちんと向き合うことと同義です。
友人へ
この世間のありとあらゆる現実を知ったような顔して囓ったりんごのパソコンとにらめっこしながら一生懸命読めるけど書けない漢字や聡明そうに聞こえる英単語を使おうとしているみたいだけどさ、君も私もこの世界中に溢れる固有名詞なんて何も知らないに等しいじゃないか。自立・自律した人間になることを自分を含めた全ての他人に要求する前に、その自立・自律の定義と意義を明確に聞かせてみてよ。その行為の理由が義務だからと抛つその言葉の意味、要は思考を放棄したということだと捉えて間違いではなさそうだね。君が君の世界で君らしく君として君自身の君の生き方を尊重しているように、私も彼もあの人もそれぞれのリズムやテンポやペースで精一杯前に進もうと踠いてるよ。生きてるよ。君が知らない歴史が君の隣でいつも、いつも、いつも、叫んでいるよ。そのけたたましい無音や沈黙し続ける騒音に耳を傾けることをしないうちは、社会を語る権利なんて無いと思うよ。君は、君の理想から言えば程遠くずっこけ続けてきた私の各々のパーツをとても軽蔑しているようだけど、私にとってこのガラクタたちは唯一無二の大切な大切な宝物だ。君にかけがえのない宝物があるように、私も君の知らない私の過去や旧人たちとの思い出は今も私の一部として生き続けている。目には見えない背景の存在を認めない君が謳う哲学は、私にはあまり有益ではないみたいだ。ごめんよ。私は君のことが嫌いなわけじゃないんだ。君の意見に賛同できないだけだ。またいつか話しましょう。