2016.12.31.所感。
ダイバーシティってどこの街ですか?
スマホでブログを更新すると、不思議なところで文字が大きくなるのですが、まあ特に気にせずにいきましょう。
、
どんなことがあっても、
たったひとつだけ、譲れないものがある。
私はこの色を愛しているということ。
そこに私の全てが尽きると言っても過言ではありません。
📎📎📎
生きていれば、良いことも嫌なこともあります。とんでもないくらいの理不尽な状況に追い込まれることもあるし、気がつくと自分が他者にそういう環境へ追い込んでいる場合もあります。
今日、多文化共生社会をテーマにした講義があったのですが、教授が、学生の顔を伏せさせて、日本は移民や難民をより受け入れるべきかどうか、と質問を投げかけました。
私がどちらに手を上げたのか、また他の学生はどういう反応を示したのか、そこは今回私が書きたい内容ではないので割愛します。
教授はその90分の講義内で、第三世界を知る上での私たちの誤解、パレスティナ人であるサイードの理論、スピヴァクのサバルタン研究等についての学説などを取り上げました。いわば、weとtheyの関係、他者とは何者であるのかという考察についての講義でした。
最近最も私が考えていたことだったので、とても興味深く受講していたのですが、やっぱり私は気になってしまうのです。
私が通う大学は、他国籍を持つ学生や教授がそれなりに多くいます。また、キャンパスがある市内も、比較的外国人の方が多いので、そういう人達のためのボランティア団体や支援活動も活発です。英語科なのだから当然と言ったら当然なのですが、それを売りにしているみたいです。
その説明をするとき、必ず教授も学生も、「多文化」「多様性」という言葉を使います。うちは多様な学生を受け入れています、と。
ふうーーーん😑
って思っちゃうんですよね。
彼らにとっては、国際的な相違だけが、多様性なんだな、と。
それって、スピヴァクの一番伝えたかった、「認識の暴力」、そのものじゃないのかな?
たとえば、
身体障害者を受け入れた事例がないこと。
アスペルガーの学生を、ほぼ放置をしていること。
合理的配慮が、先生方によってあまりにも差異があること。
ほとんどの教授、講師が、出身校が同じであること。
バイだとカミングアウトした友人が、そのことで今も人間関係を中々営めないこと。
家族を大切にすることや両親を愛しているひとたちが多く、他者にそれを要求する傾向が強いこと。
比較的裕福な家庭育ちが多いこと。
両親ともに大卒者が多いこと。
何より、
私が並々ならぬ違和感を毎日感じていること。
パッと思いついただけでも、多様性っていう定義を改め直したほうが良いのではないか?と、少し疑ってしまう。
別に、絶対にそういうマイノリティを受け入れろと言いたいわけではありません。
でも、無意識のうちに、自分たちは自分たちの知らない人間を抹殺している可能性があることは、本当に、本当に、肝に命じておくべきだと思います。
サバルタン研究をすることで、余計にサバルタンの人間をサバルタンとして固定させてしまうこのジレンマと、私はもっともっと向き合っていきたいと思います。これは、私にとって、自分という存在ときちんと向き合うことと同義です。
友人へ
この世間のありとあらゆる現実を知ったような顔して囓ったりんごのパソコンとにらめっこしながら一生懸命読めるけど書けない漢字や聡明そうに聞こえる英単語を使おうとしているみたいだけどさ、君も私もこの世界中に溢れる固有名詞なんて何も知らないに等しいじゃないか。自立・自律した人間になることを自分を含めた全ての他人に要求する前に、その自立・自律の定義と意義を明確に聞かせてみてよ。その行為の理由が義務だからと抛つその言葉の意味、要は思考を放棄したということだと捉えて間違いではなさそうだね。君が君の世界で君らしく君として君自身の君の生き方を尊重しているように、私も彼もあの人もそれぞれのリズムやテンポやペースで精一杯前に進もうと踠いてるよ。生きてるよ。君が知らない歴史が君の隣でいつも、いつも、いつも、叫んでいるよ。そのけたたましい無音や沈黙し続ける騒音に耳を傾けることをしないうちは、社会を語る権利なんて無いと思うよ。君は、君の理想から言えば程遠くずっこけ続けてきた私の各々のパーツをとても軽蔑しているようだけど、私にとってこのガラクタたちは唯一無二の大切な大切な宝物だ。君にかけがえのない宝物があるように、私も君の知らない私の過去や旧人たちとの思い出は今も私の一部として生き続けている。目には見えない背景の存在を認めない君が謳う哲学は、私にはあまり有益ではないみたいだ。ごめんよ。私は君のことが嫌いなわけじゃないんだ。君の意見に賛同できないだけだ。またいつか話しましょう。
孤をひとりで描く
生きていても
良いことなんて無いんだなぁ
って
今でもちょっと、いやかなり、思うのだけど
たぶんそれは
しあわせのハードルが高いだけなのだ
たとえば
布団のなかあったかいとか
走った後のカフェオレおいしいとか
そういうことで良いだけなのだと
ちゃんと気づいている(ふりをしている)
失くした何かや欠けた思いだけを
指折り数えて
手の指だけじゃ勿論足りなくて
まだある足の指さえも
足りなくなることに怯えて
記憶は何度も何度も再生ボタンを押してくる
一時停止する優しさは
一時的で何の解決にもならないことぐらい
ちゃんと理解している(つもりなだけだ)
本当は
生まれてきてここまで
いろんなことあって今生きてるってことがどれだけすんごいことなのか
あの頃よりはマシだって考えかたがどれだけ大切なことなのか
私はたぶんまだ知らない
誰も彼もが嫌いだ
大嫌いで大嫌いで大嫌いだ
出逢わなければ良かったひとの数が
これ以上増加し続けるのが怖いから
語らなくても済んだ思い出の数が
これ以上更新されるのが怖いから
だからもう誰も彼もが嫌いだ
自分に厳しく
誰よりも自罰的に生きているようで
同じ鋭さを持ったナイフを
不特定多数の他人に振り回しているだけだと
私はたぶんまだ悟れない
愛だとか平和だとかいうことば
そもそも定義すら知らないくせに
どんなにコンパスで弧を描いたって
ひとりなら円になるわけないだろうに
きっととりあえず罪を背負っていれば
とりあえず底知れぬ痛みを感じていれば
誰かが立ち止まってくれる(はずだ)から
誰かが恵んでくれる(にきまってる)から
わかってるよ
とりあえず自分のせいじゃないことにできるから
宗教なんて
社会なんて
歴史なんて
そんなものだよ
裏切りだと言うほど
表立った行動なんてしていないのに
いつから私は
必死に絆創膏や包帯を探しているのだろう
他人を傷つけたくない優しさは
自分が傷つけた罪悪感を背負いたくないだけなのに
自分以上に大切に思える宝物が見つけられないんだ
そう思えるようになるまでの時間が無いんだ
ああだからそうやって
自分がカワイイって
自分で認められないから困っているんだ
馬鹿な真似ができる奴は頭が良いとか言うけどさ
頭が良いなら馬鹿な真似なんかするなよ
正々堂々気取って高みから馬鹿をバカにして馬鹿を食い物にしてしまえばよいのに
ああ
そうやって
部屋のなかで馬鹿にしている雪景色から
馬鹿にされることを恐れているだけだ
夢なんて山みたいなものだよ
遭難しそうになったら下るなよ
そんなこと言ったって
自分以外に守りたいものが今は見つけられないんだ
私はいつまで
弧を描き続けるのだろう
アドラー心理学の流行について
アドラー心理学の熱がなかなか冷めませんね。
書店に行くと、『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』は未だに堆く積まれていますし、ビジネス誌や自己啓発関連のブースでアドラーの名前を頻繁に見かけるようになりました。このことについて、実は私は随分前から危惧しています。
先にリスクヘッジを売り込んでいるようですが、私は大学で心理学を専攻しているわけではありません。アドラー自身の著作を読んだこともありません。そんな私がこんな記事を書くな、と怒られそうですが、あくまでも『嫌われる勇気』関連の本に対して書きます。根拠のあるロジカルな批判は何なりと受け付けます。
『嫌われる勇気』に、このような文章(p88〜89)があります。
劣等感そのものを先鋭化させることによって、特異な優越感に至るパターンです。具体的には、不幸自慢ですね。
(中略)
自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々ーーたとえば家族や友人ーーを心配させ、その言葉を束縛し、支配しようとしている。
また、最初の章の名前はずばり、「トラウマは存在しない」。
いかにも、フロイトの理論から一線を画し、決別したアドラーの個人心理学を端的に表した言葉です。
私が初めてこの本を読んだのは、今から二年ほど前のことです。ちょうど、私の人生もひとつの大きな転換期にありました。素直に納得しましたし、この本が言っていることはその通りだ、と過去の自分を恥じもしていました。それから暫くの間、この本からも学術的なフィールドからも離れた生活を送っていました。介護職員にとって哲学の理論や主義なんて必要はなく、技術の向上と利用者に対する愛だけしか私の頭にはありませんでした。もっとも、その愛ゆえに私は介護職から離れる決意をしたのですが。
ですが、最近になり、改めて高等機関で勉強や論文を書いたりする機会を得て、この『嫌われる勇気』に対して、あれっという引っ掛かりを覚えるようになりました。繰り返しになりますが、私は心理学を履修しているわけではありません。英語科の歴史学のゼミで社会学の勉強をしている、わけのわからない短大生です。
何が引っかかるって、こんなにまでアドラー心理学が人気を博するようになって、傷つくひとが必ず一定数いると考えるからです。というか、実際にもし、私がこの本を高校時代に読んでいたとしたら、おそらく一生立ち上がれないんじゃないかってくらい余計に落ち込んだことでしょう。
さっきの引用文の話だけに帰着させると、明らかにこの文体は、「不幸自慢」するひとのことを痛烈に批判していますよね。でも、私が思うに、問題は「不幸自慢すること」ではなく、「なぜ、いつから、不幸自慢するようになったのか」なわけです。それを、過去のトラウマは存在しない、自分がこの先も不幸で居たいから、自らの手で不幸で居ることを選んだから、いつまでたっても変わらないのだと結論付けてしまったら、彼らに逃げ場所が無くなってしまいます。
アドラーの理論だけがビジネスや学校などの現場で応用され、独り歩きするようになったら、何らかの理由がきっかけで心を病んでしまったひとや、不登校で苦しむ生徒などの人権はどうなるんだろう、なんて考えてしまいます。
こういう考えもある、と留めておくことはとても大事な営みだと思うし、その他の章や本で納得することも多々あります。何より私がこのような記事をより論理的に説得性を持たせるためには、まだまだ勉強不足を痛感させられます。
しかしながら、ただ、社会がこうやってひとつの理論に集中することにより、案外近くにいる誰かが傷つくこともある、ということは覚えておくべきことだと思うのです。悪意のない無言の大衆の圧力こそが、一番鋭利なナイフであったりするのです。
週刊ダイヤモンド 2016年 7/23 号 [雑誌] (今こそ! 「嫌われる勇気」 初めてのアドラー心理学)
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後期が本格的に始まりました。課題やらレポートやら予習やら読書やらTOEICやらで、早くもキャパオーバーだったりするのですが、前期の成績がそこまで良くも悪くも無かったので、もう逃げられません。病み始めたら、このブログを逃げ場所にします。ふぁいとだ詩織p(^_^)q ♫