成熟すること、卓越すること、
昨日、母校の文化祭に行って、後輩たちと飲み会をして来ました。 このモヤモヤした気持ちを書きます。
人間として成熟することって、本当にひとそれぞれのペースがあります。同じ地点に立つまでに、一発でパッと道程がわかるひともいれば、たくさんの試行錯誤を重ねに重ねてようやく辿り着けるひともいます。そもそも、何をもって成熟と見なすか、どこからが大人であるのか、それを規定することさえ、ひとそれぞれです。 だから、他人と自分を比較して一喜一憂するのは愚かだ、というのは、おそらく真理であると私は思っています。
その上で、昨日、久しぶりに担任に会ってたくさんお褒めの言葉をいただき、抱きしめられたことは、本当に嬉しかったし、また申し訳ない気持ちにもなりました。高校時代の私を、一番に理解しようとしてくれていたにもかかわらず、当時の私はそれを素直に享受したり、感謝の意を伝えられるほど大人ではなかったから。 先生は、何度も何度も私に「頑張ったね」とおっしゃいました。頑張ってね、じゃなくて、頑張ったね、と。それに対し、私も確かにいろいろ頑張りました、なんて笑ったりなんかしていました。
その後、部活の後輩たちと再会して、飲み会に流れ込んだ時、なんだかさっきの、「うん、確かに私は今まで頑張ったな笑笑」って気持ちがさめるような感覚を覚えたのです。 なぜかって、後輩たちはあまりにも卓越していて、成熟していて、私が考えていたよりはるかに大人な考えを持っていたからです。 私が今この地点に辿り着くまで、こんなにもこんなにも紆余曲折した道程を歩いてきました。でも、この子たちは、今の私よりもずっとはるかに先を、ずっとはるか前に歩いていて、そこで多くのものを習得してきたんだな、と。そう、卓越しているんだ。今の自分たちに対しても、先輩である私、後輩である在学生、顧問、過去、未来、そして社会全体に対してでさえ。 大学生はロクなこと考えない、とか、ゆとり教育だとか、好き勝手なことを都合の良いオトナたちは私たちを嘲笑うけれど、全然そんなことありません。ゆとりだろうと詰め込みだろうとさとりだろうと、考えるひとはどこまでも思考を深めるし、お花畑のひとはいつまでもお花畑なのです。
そういう意味で、私は悔しいな、と思いました。 私が今のこの思考に到達するまで、こんなに履歴書も経歴も汚れてしまったことが、悔しくなったのです。今の私を、機械的な書類だけで判断するひとたちとは、最終的にもより良い関係は築けないだろうから、それだけの理由で就職や人間関係がうまくいかないことに関しては特に危惧していません。でも、この今の立場、思考に到達するまで、もしかして、もっと近道があったのかな、、、という気持ちが拭えないのです。率直に言うと、今の私のまわりの同級生にお花畑の子たちが多いのは事実です。でも、彼女たちと同じ学生証を持っているということは、私もその程度の人間だからです。明らかに後輩たちと自分を比較しているだけで、本当に愚かなことなのですが、やっぱり、悔しいものは、悔しいです。
とにかく、このモヤモヤした違和感って、結構自分のなかで大事だと認識しています。 私がこの先どんな自分でいたいかな、将来どうなっていたいかなってことをぼんやり真面目に考えた時、少なくとも今までのことを痛々しくダラダラ語ったり、傷痕を舐め合うようなひとと関係を築き合いたいとも思わなくて。そして、これはあくまでも私個人の考えに過ぎないのだけど、過去の私のような人たちを職につく形で支援するのも、私らしくないな〜って。ボランティア団体とか非営利組織や協議会で活躍している人たちのことは本当に尊敬するのだけど、私はできればひとりでふらふらと気が向いた時に私の傍に寄ってきたひとたちと遊んでいるほうが好きなので。
私は、自分が居たいと思える場所に身を置くために、今から、精一杯頑張ろうと思います。もう、自分には、負けません。
スマホやスマホや、若を如何にせん。
こんにちは。
岩手に帰省しています。台風を背中に乗っけて来たものですから、なんだか節々が痛いです。
そして、新宿駅構内にて、PASMOと学生証が入ったスマホを落としました。あの駅の警察や駅員のかたがたは本当に偉大だと思います。正直、彼らは何を以って仕事を続ける意欲が持てるのでしょう。畏敬の念を抱きます。とは言えスマホをピピピッって見つけてくれるわけでもないので、あと1年半の契約をどう生きていけばいいのか未だに目処が立ちません。はああああああ💀💀💀💀
さて、岩手で私は、多くの友達と会う約束をしています。もう既に会った友人も居るのですが、本当に自身のの人生観や経験を語らう時間というのは有意義なものですね。良い意味でも悪い意味でも、なるほど、彼女はそういう風に考える(ようになった)んだな、と
特にも、同じ高校を卒業し、国立の医学科に進学した親友の話をしましょう。
彼女は勤勉努力家であり、中高と学年一位の座を譲ったことがない上に思いやりも気遣いも出来、実に才色兼備的なひとです。そんな彼女、先日までフランスでの実習生に選ばれて渡仏していたとのことで、その時の様子の写真を見せてくれたり、たくさん話をしてくれました。
率直に言うと、少し変わったな、と。
医師らしくなった、というか、前より増して人生設計の計算が速くなった、というか。
ハタチの女の子が、そこまで時間的にも精神的にもありとあらゆる全てのイベントを両立させた上で、そこまで悟りの境地レベルに物事や自分、他人を判断評価出来るって、アンビリーバブルでございます。
具体的に、
過去の彼女が使っていて私にくれた問題集をみせると、パラパラとめくりながら、
「うん、この頃の私は本当に頑張っていた。とてもよくまとめられていると思う。そして、詩織ちゃんや他の皆から憧れられていることも、尊敬されることも、先生方から絶大な期待をされているってこともわかっていた。でも、だからと言って何一つそのことに関して何か感情を持ったことはなかったな。私は私のことしか考えてなかったもん。私がより高みに行けるためにはどうしたらいいか、その時の理想とする自分になるためにはどのように努力したら良いか。そのことにしか私は興味無かった。過去の私に声をかけられるとしたら、その考えは間違っていなかったけれど、もう少し柔軟性を持って、いろんな人の考えを取り入れることも必要だって言うかな。」
と、サラサラと答えるのです。まるで春の小川のように自然としなやかに言葉が出てくるのです。
私も、柔軟性、という言葉はものすごい大事だと最近痛感しています。
なぜかは甚だ疑問ですが、私の大学で、よく大学を辞めたいという人生相談を受けることがあります。私は自分自身が中退経験があるので、正直苦笑いしてしまうのですが、とにもかくにもその相談をしてくる人たちは至って真面目に、真面目すぎるほど、悩んでいるように見えます。
でも、正直に言って、彼女たち(過去の私も含め)は、何一つ思考をしていません。悩んでいる、というより、勇気を出して私に相談をしてきた、その時点で既に答えは決まっているのです。大学を辞めたいと悩んでいる、のではなく、大学を辞めるつもりなのだけど賛成してくれるか?、と。
だから、ここで私が、大学を中退したことによってどのような社会的な差別に遭うかということや、何にも属していない期間のアイデンティティの喪失感は異常だということなどの説教をしたところで、何にもなりません。一度経験をしなければ、一度自身で選ばなければ、ひとはわからないのです。だから私は、大々的な人生の指標書であったり啓発的な本を読んで悟った気になることはありません。あくまでもその本の著者や主人公の人生なのです。
柔軟性、という言葉に戻りますが、私も彼女のように、過去の自分に対しては、もう少しひとの意見に耳を傾けてみなさい、と言いますね。年上年下限らず、人生の先輩であるひとの意見を聞くことは、その道に進むか否かは別にして、とても大事なことですね。あらゆる選択肢や可能性、選べる余地がある上で、Aという人生を歩むか、Aしか無いからAにするか。それは解釈の違いなだけかもしれないけれど、前者の方が自分の人生に自信と誇りと責任を持てる気がします。
先ほど、人生の先輩というのは年上年下限らない、と書きました。それはなぜかというと、正直に言って、どんなに年を食っても、人間的に成熟出来ていないひとは、やはり一定数いるのです。わけがわからない人間、何を言っても何一つ響かないひとは、やはりいます。
そういうひとたちと同じ組織や団体に所属すると、厄介ですね。10人中9人が成熟した者なら、1人の変な人は自然淘汰されていくものだと思うけれど、逆転すると、本当に苦しみます。
成熟というのは、多様な人、価値観、物の見方に対して、許容できるというスキルだと私は認識しているのですが、なかなか世の中全員っていうと、そうもいかない。
私は、そういうひとに出会ったら、極力そのひとのことは、言葉も振る舞いも考え方も、理解することが不可能な👽異星人👽だと思うようにしています。それだけで、少しラクになります。
岩手には二年間は帰省しないと決めたものの、帰省するって意外と悪くないですね。
今度の記事は、今の私の家族に対する思いを書いてみようかな。
とりあえず帰省中の目標は、車の運転🚗で事故らないことです笑
楽観的なペシミスト
可愛いでしょ。🐱自慢したかったの。ふふ。ふふふ。
私はとってもマイナス思考なひとなんだけども、そういう自分のこと、最近は別にきらいじゃないんだ🌝ってはなしをします。
なんて言うのかな、
ものごとを悲観的に捉えているほうが楽ちんなんだよね。うん。
こいつに裏切られるぞ、こいつは離れていくぞ、そう思っていたほうが、ほんとうにそうなってしまった時の傷痕は浅くて済む。ああやっぱりそうだった、って自分を納得させやすい。
そんな感じで、結構今までずっと身構えちゃって生きていたんだけど、今はちょっと違う意味で悲観主義者。
本来の意味的に、厭世的な気分で、「へっどうせこの世なんて‥‥😏」みたいなニヒルな笑みを浮かべることともちょっと違う。
でも、ちょっと諦めにも似たような気持ちで毎日を生きるってことは、そんなに悪いことじゃないと思うんだ。
負けて元々、だめで元々、
人生はガチャガチャみたいなもの、
たまたま目をつけていたものに当たったり、意外とおもしろいものに当たったりしたら、めっけもん♫♫みたいな、
元来は超完璧悲観主義者なんだけど、そんなネガティヴなところから、暗いところから、どこかで楽天的な気持ちを見出すってことは、わたしにとって結構大事なスキルだったり。
私はもともと頭が良いわけでもないし、容姿に恵まれてきたわけでもないし、何か芸術に秀でていたりするわけでもない。
だから、人との関係や未来への先を見越した決断とか、いろんなことを計算することはとても苦手だ。すぐにメンヘラっちゃうし。笑
だから、それなりに無い頭を使って考えたり打開しようとしたりする努力はしてきた。自分のすべてのパーツがグレーゾーンに位置するからこそ、こんなんじゃ嫌だ、もっとキチンとしなきゃ、やらなきゃってもがいてきた。
でもきっとその努力って、方向性が少し違っちゃっていたんだと思う。
同じ努力数でも、方向が間違っていれば、打開なんて出来るわけないんだ。アタマが悪いから、そんな当たり前のことを身に染みて理解するまで、こんなに時間がかかっちゃったよ笑
でも、そうやって、他の人は淡々とこなせちゃうようなこともいちいち立ち止まったり、悠々と乗り越えられるはずのハードルにコケて傷だらけになったりする自分のことは、嫌いじゃない。
そういう不器用でなーんも取り柄がないからこそ、不器用でなーんも取り柄がない人の気持ちがわかるから。
そんな感じで、理解しあえる仲間も、尊敬する先輩も、応援してくれる後輩も、そしてきちんと諭してくれるひともいる。
だから、このメンヘラチックな痛いペシミストで良かったと思うし、この先も、自分の思うままに軌道修正しながら、生きていこうと思うのであります🙋🏻
軌道修正、って大事だと思う。
このいまのキャラクターや信念を押し続けるってわけじゃなくて、
ひとから言われたこととかを、自分なりにしっかりと納得したうえで、自分のなかにもう一度取り入れ直すっていうのは、ほんとうに大事。
それはちがうよ、そっちに行っちゃだめだよ、って、無視をしないできちんと呼び止めてくれる人がいるって、本当に幸せなことだと思う。
頷きマンになるわけでも、我を貫き通すわけでもない、しなやかでささやかな🎋bamboo grass🎋みたいな生き方を、していこうと思います。七夕生まれだから。笑
と、
いうわけで、
私は、私らしく、バッタンバッタン行き当たりばったりながらも、私の夢を、叶えるぞー。見てろよ😎👀👁
p.s.
ブログは、気が向いた時に、思う存分、気が向いた文調で、気が向いた内容を、気が向くままに書きまする👯
20歳最後の更新です。
とりとめもない話。
絶賛大不調なうなので、せっかくなので記事を書こうと思います。
テンション低いし、不愉快な思いさせたくないので、戻る↩️のボタンを押しても良いです。
私はADHD傾向があると言われているのですが、みなさんの周りにもいませんか?ちょっと変な人。その人たちが普段どんなことを考えているのか知りたい人はスクロールしてみても損はないかもしれません。得もないけどね。
今何を考えて生きているかというと、
実は完全に思考が停止しているので、特に何か生産的なブログを書ける気がしません。は?今まで書いたことあったか?っていうツッコミは置いといて、今は普段大好きなわけわからないiPhoneの絵文字を使う気にもなれません🤖←使ってる
そんなハムスターの回し車のような精神状態だからこそ、今書ける文章を力を込めて書きたい所存であります。前置き長いな。一言で済むだろ。笑
私、最近ものを落とします。
思考力だけじゃなくて注意力も散漫しているので、驚くほどにものを落とします。講義中のペンとかならまだしも、バイト中に布巾を落とし、氷を落とし、しまいにはお客様のスカートに水をこぼしました。そして今日は、実家から宅配便が来たのですが、その受け取りの際に印鑑を落とし、それを拾おうとした矢先に紙を落とし、宅配便のお兄さんとの間に天使👼が舞い降りました(白けた空気のことをフランスではこう言うとか言わないとか)。そういえば大学の門の近くに丸1日落ちていたことになるあのイヤホンは私のものです。雨に濡れてびしょびしょで泥が付いていたからか、誰も盗まなかったことに感謝します。いがったいがった。
注意力が散漫になると、今度は判断力が低下し始めます。1年前、高速から降りてきた車とのバイパス道路で、運転中に白昼堂々と信号無視をしそうになった経験が俄かに蘇ります。そういえば、こっちに来てからはスーパーペーパードライバーか。車持ってないし当たり前か。来年の更新でゴールドかな。
話はずれましたが、注意力の場合はとにかく何が正しいのかややっちまった感みたいなものの分別や判別ができていたのに、判断力が低下するとそのことさえどこかに置いてきてしまったかのごとくわからなくなります。高校物理の公式が理解できない小学生と同じレベルで、交差点の渡り方やコミュニケーションの間合いの取り方がわからなくなるのです。特にコミュニケーション能力については、もともと高いわけでは勿論ないのでとにかく天使👼が目の前に何人も踊りまくってる感じになります。ん?天使👼の数える単位って、◯人でいいのかな?
そんな初歩的な能力が欠如しているのにもかかわらず、社会では相も変わらず集中力とか理解力とか臨機応変力なんていうハチャメチャに高度なものを求めてきます。まるで私の実家の近くにいる野生のたぬきたちに四次元ポケット出せと脅しているようなものだということに誰も気づきません。わからないものはわからないし、プラスαの内容であったり比喩的な用法であったりhidden messageなんて難し過ぎて眠るしかありません。あぁ冬眠したい。はーやーくーこーいーこーいーお正月ー。
なんていうんでしょう。
人間って、得手不得手は必ずあると言うけれど、実際にマジョリティの人が得手とするもの、そもそもそれ以前に備わっていると当然視されているものが欠落している私には、そういう類の励ましさえも悲しくなるのです。
私は、ひとりで美術館に行ったり俳句や詩をつくったり本を読んだりしているときや、ウイスキーやカクテルの飲み比べをしたりしている方が好きです。福祉という観点からというより、ただただフラットにいろんなマイノリティの方々とお話ししたり遊んだりしていた方がたのしいです。
口ではみんな、良い趣味だねとか面白いねとか偉いねとか言ってきますが、実際問題として求められている現代を生きるスキルは、スピードであったり要領であったり競争心であったりで、私にはほとほと疲れてしまうのです。みなさんの精神力のキャパがスタバのベンティサイズだとしたら、私はお猪口並みですもの。
この先どうやって生きぬくべきなのかわからず、ただただ沈黙の春でございます。あぁ人間学のレポート終わってないや。
異文化理解とかっていうものがグローバル社会を生きる上でかなりキーポイントとなってる世の中ですけど、何も国際間に限りませんよね。
でも、ぶっちゃけ理解なんてされなくていいんですよ。私の世界観や価値観は私個人のテリトリーの上で構築されているわけで、むしろ理解しようと土足でそこに踏み入れられるのは不快感さえ覚えます。理解なんかいらんから、お願いだから否定はしないでくれといいたいのです。愛の反対は憎しみでは無く無関心だと私の大学の先生方はニコニコとおっしゃいますが、私に関しては無関心でも構わないのです。ほっといていいです。触れなくていいです。でも否定しないでくれ。ちなみにマザーテレサのことは前ほど嫌いではありません。
なんだかとりとめもないまとまりもオチもないブログですが、ちょっと変な人と思われがちな私を吐き出す良い時間になりました。私と似た感情を持つ人が、この地球のどこかにきっといるはず。きみといっしょに、私も頑張らせてほしいな。